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長岡市 摂田屋


長岡市の摂田屋です。
醸造の町をPR中。酒屋さん、醤油屋さん、味噌屋さんが集まっている地区です。
ちょっと良い国産大豆の味噌を試したくなり、行ってきました。



「NPO法人 醸造の町摂田屋まちおこしの会」
で作られた分かりやすい地図がその場にありましたので、写真を撮らせて頂きました。
クリックすると大きくなります。


注意として、駐車場の位置を事前に確認してから行かれると良いかと思います。





町並はこんな感じです。ちょっとお散歩気分で行ってみるのもよいかもしれません。時々香る、味噌、醤油、酒?が良い感じです。軽食等もできる場所があります。

追伸
小林虎三郎の興学私議ですが、ようやく読み終わりました。これから説明用の資料作りに入ります。ご紹介までもうしばらくお待ちください。

  

2021年06月06日 Posted by きたゆき at 13:54Comments(0)長岡市

小林虎三郎の興学私議を読んでみた 1 ~はじめに~



「米百俵」のエピソードで有名な小林虎三郎ですが、虎三郎が書いた「興学私議」という論文があり、少しずつ読み進めています。これは「諸外国に負けないためにはどうするか?」「教育及び教育の仕組みはどうあるべきか?」という課題に対する小林虎三郎の考えを論じたものになります。

資料としては、
「山本有三 著 米百俵 小林虎三郎の思想」に漢文の原文と書き下し文が記載されており、これを漢和辞典片手に読み解いております。

長岡市立中央図書館のホームページにも原文と書き下し文が読める場所があります。
以下リンクです。

ながおかネット・ミュージアム
https://opac.lib.city.nagaoka.niigata.jp/museum/kyushidouikou/yomikudashi/bun02.html

※難解な熟語の解説がリンク切れ?になっているのが少しもったいないような気もします。



本件を調べようと思った動機は、
「教育が大事なのは分かるけど、どんな教育をしてどんな人材を育てれば良いの?もっと具体的に知りたい」
という興味。

そして、「明治維新、やったは良いが、庶民の暮らしは良くなった?」という疑問へのヒントになるのでは?という思い。

この2つが大きいです。


この「興学私議」は中々の長文で、どのようにブログ記事に記載しようかと考えました。
結果、
1回目.私の動機と「興学私議」が書かれたの時代背景をご説明させていただく
2回目.興学私議の本文の私なりの現代語訳(前後半等に分けるかもしれません)
3回目.考察
といったような形で整理しようかと考えております。
よろしくお願い致します。


それでは本題に入ります。
動機につきましては、既に申し上げましたので「興学私議」が書かれた時代背景を、
「山本有三 著 米百俵 小林虎三郎の思想」の ~隠れたる先覚者 小林虎三郎~
を参考に記載致します。

小林虎三郎は23歳で江戸に行き、その翌年に佐久間象山の門下で勉強を始めたとのことです。
ちょうどその頃ですが、
嘉永6年(1853年)に黒船来航
嘉永7年(1854年)吉田松陰が渡航失敗して投獄
というような出来事が起きていました。

小林虎三郎は、師匠の佐久間象山の意向もあり、当時老中だった長岡藩の牧野の殿様や大老の側近に横浜の開港を説いて回りました。
これが当時の安部大老の怒りに触れ、大老から牧野の殿様には「書生の分際でけしからん!」と言うような言葉があったようです。牧野の殿様もこうなっては虎三郎を江戸に置いておけなくなり、長岡に返したということです。

長岡に帰った虎三郎は謹慎となり、不幸にも難病にかかってしまいます。しかし、それでも筆は置かずに……という中で書かれた論文が「興学私議」になります。

この記事の続きは興学私議の内容について準備ができたらアップします。連休明けぐらいになるかもしれません。

半分以上は自分の興味から調べておりますが、もし本ブログの読者様にもお役に立ったり、楽しんでいただけるような内容にできたらうれしいな、と思いつつ整理して参ります。


  

2021年04月12日 Posted by きたゆき at 20:19Comments(0)長岡市

三島億二郎日記をよんでみた その2



三島億二郎日記を読んでみた、の二回目です。

今回は
明治19年3月10日 (第二回北遊記の2)
からご紹介致します。

当時の日本の鉱山産業の実態と(前半部)、
当時の不景気の要因分析に対する所感(後半部)が書かれています。

無い頭で漢和辞典を片手に読んでみました。
およそ以下のような内容でした。

前半部
---------------------------------------------------

★石炭産地の主な場所(カッコ)は現在のおおよその地名

 〇九州
  -三池(熊本県大牟田周辺)
  -高島(長崎県高島町)
  -筑前(福岡県)
  -多久(佐賀県多久市)
  -唐津(佐賀県唐津市)
  -今福(長崎県松浦市付近)
 〇羽後
  -油戸(山形県鶴岡市)
 〇北海道
  -幌内
 〇中国
  -長門・船木(山口県宇部市)
 〇南海・四国
  -小豆島
 〇東国
  -磐城(福島県)
  -茨城(茨城県)

坑業の進捗や産出量の増加は年々見張るものがある。
明治16年の産出高は907539ton 2,623,570円
この内海外輸出は 389541ton 1,357,935円

★銅産地の主な場所
 〇下野足尾 (栃木県足尾)
 〇伊予別子 (愛媛県新居浜市)
 〇越後草倉 (新潟県阿賀町)
 〇羽後阿仁 (秋田県秋田市)

これらに次ぐもの
 〇越前面谷 (福井県大野市)
 〇飛騨神岡 (岐阜県飛騨市)
 〇大和・玄里(奈良県??町)
 〇陸中尾去沢(秋田県鹿角市)
 〇美作瀬戸 (岡山県美作)
 〇長門蔵目喜(山口県山口市)
 〇備中吉岡 (岡山県高梁市)
    帯江 (岡山県倉敷市)
 〇羽後荒川 (秋田県大仙市)
    卒田 (秋田県??町)
 〇加賀尾小屋(石川県小松市)
 
明治16年算出 1176999千斤(1斤≒600g) 736,076円

★銀産地の主な場所
 〇岩城半田 (福島県国見町)
 〇佐渡相川 (官坑)
 〇飛騨上岡 (岐阜県飛騨市)
 〇但島生野 (兵庫県朝来市)(官坑)
 〇羽後院内 (秋田県湯沢市)
 〇陸中軽井沢(福島県河沼郡柳津町)
 〇播磨大立 (兵庫県養父市)

明治16年算出 4383貫881目 928,119円

輸出760,046円 輸入2,352,511円 輸入超159万余
------------------------------------------------------
前半部以上

改めて日本って全国各地に鉱山資源があったんだなというのが新鮮な感覚です。
地名とか見てますと、〇〇財閥とか〇〇製作所とかにつながるものも見られます。

当時の鉱山資源の輸出内訳みたいなものがないのかさがしてみたところ、
経済産業省のHPにこんなものがあったのでご紹介します。

経済産業省
統計>本邦鉱業のすう勢調査>本邦鉱業アーカイブス
https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/honpouko/tokei.html

この三島億二郎日記が書かれたころより十年以上後のデータなのでそのものズバリではないですが、
なんとなく雰囲気が感じられればと思います。


引用データは以下の通りです。
「明治三十九年 本邦 鑛業ノ趨勢」
「-第四章 鑛産物の輸出入」の内、明治36年と記載のあるデータ






明治36年の輸出額の内訳を見てみると石炭と熱銅が主力の輸出品だったことが分かります。


次に、世界での石炭及び銅の産出量を示します。
「明治三十九年 本邦 鑛業ノ趨勢」
第三章より、明治36年と記載のあるデータ











このデータは「ミ子ラルインダストリーより摘載す」とありますので、当時の人が、
資料を抜粋して作成したものだと思います。

石炭については北米、イギリス、ドイツがぶっちぎりですが、日本が8番目に記載されています。
本資料にも「本邦ハ實ニ第八位ヲ占ム」と記載があります。

銅については北米がぶっちぎりですが、意外にも日本が上位にいます。
銅山と言えば栃木県の足尾銅山が有名ですが・・・


ちなみに下記のような資料もあり・・・

幕末、明治初期における石炭輸出の動向と上海石炭市場
杉山伸也著
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sehs/43/6/43_KJ00002434370/_pdf/-char/ja

当時は船が物流の主力で動かすための燃料は石炭でした。
という背景があり石炭は重要な資源でした。
さらに、輸出先の上海では日本の石炭のシェアはバカにならない割合だったようです。


ここから後半部になります。
---------------------------------------------------------------------------
不景気の原因

紙幣の減縮、政治費用の増加、このため農民の購買力が減少した。
金価の高騰、貨物供給増加のために輸出品の価格が減少した。
農業者、商業者、工業者の(経済力)が弱る理由である。


封建時代に米が貨幣のかわりの役割を成していた時の効用はどれほど大きかったであろうか。
我が国では雇人の報酬を米で支払い、借金の返済にも米を使い、その他効用が大きかった。
このような状態であったから、貨幣が少なくても用事は足りていた。
今から報酬を全部貨幣で支払うとなった場合、貨幣が大体2億ぐらいとなるのではないか?
私の見立てでは1億2~3千は不足していると思う。米による給料支払いと金による給料支払いで、
後者と取るならば、給料を受け取る人はこの後、財布が空になる心配をするようになる。
これを放置してそのままにしておくと極貧となる原因になる。
外国にこのような疲弊の例はあるのか?

封建時代の納税は決して軽いものではなかった。
しかし、不作やその他予期せぬトラブルの為に庶民の生活に不安が出れば、減税・免税の実施や、
手当を施すこともあった。翌年の収穫があるまで養うこともあった。
これが税が重くとも農民が耐えられた理由である。
今、これに反する減税が必要となる次第だ。
地券証となってから農民の浮沈はひどいものだ。
------------------------------------------------------------------------------
後半部以上

地券について
※国税庁
https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/network/152.htm
抜粋「、明治政府が明治6年以降行った税制改革であり、農業生産者に米などを物納させる年貢(旧地租)に替えて、土地の所有者に税金(新地租)を課すものであった。」

所謂「地租改正」というものの影響の話かと思います。
奈良時代とか律令政治がとか言われていた時代、もしかしたらもっと古い時代から、農業者はお米を税として納めていました。
それが、明治の世になって貨幣で納めるように変えられたというものです。

これによる庶民の混乱や疲弊について、三島億二郎は述べられているのだと思います。
私も三島億二郎と同様、当時の欧米の庶民がどんな暮らしをしていたのか気になりました。

私の三島億二郎日記の研究テーマの一つとして、
「明治維新 やったは良いが 庶民の暮らし よくなった?」
という疑問があります。

この辺りもデータや文献などから裏付けが取れたら面白いかなと思います。
引き続きコツコツ進めて参ります。
  

2021年04月02日 Posted by きたゆき at 18:52Comments(0)独り言長岡市データで分析 新潟県

北越戦争時の著名人の年齢を並べてみた


今日は軽い話題を一つ。
戊辰戦争の頃、幕府、長岡藩、薩摩藩、長州藩等の人々がどのような年齢であったか、
並べてみました。

ソースは全部ウィキペディアです。
(一応確認はしていますが間違っていたらすみません)

人選は私の独断の偏見です。
まずは、所属別に並べてみます。
以下、敬称略させていただきます。




所感
・長岡の殿様 若い!!
・長岡藩のお三方の醸し出すベテランオーラ(他の藩士の方ももちろんいらっしゃったんでしょうけれども)
・徳川慶喜と勝海舟の関係、いくつかのテレビドラマの役柄の雰囲気などはこの辺を意識しているのかな?



次に、年齢順に並べてみます。




所感
佐久間象山の門下生、吉田松陰くらいまでの面々を見ると、ベテランオーラを感じます。
佐久間象山が当時の人々に与えた影響と、影響を受けた人々の行動を顧みると感慨深いです。
長岡のお三方は勝海舟と近い世代だったんですね。

徳川慶喜や松平容保が若手の方に入って来るのも改めて見ると少し発見です。



続きまして、江戸城無血開城メンバーと北越戦争に携わった皆様に分かれてもらいます。




江戸城無血開城組の面々、安定感を感じます。
新政府軍は長岡藩になんでこんな若z(ゲフンゲフン)←これ、素朴に疑問です。あちら側に何か資料が残っていないものか・・・
もし、黒田清隆が小千谷に来ていたら・・・という歴史のIFもありますが、それでも黒田清隆28歳とは・・・。


聞くところによると、河合継之助の藩政手腕は並々ならぬもので、
牧野の殿様も継之助に大きな信頼を寄せていたということです。
交渉失敗→北越戦争→長岡被災→河井継之助戦死→殿様謹慎
殿様の心中は察するに余りあります。
牧野忠訓は明治8年に32歳で若くしてお亡くなりになっています。


人の能力は年齢が全てではないと言うべきか、経験の積み重ねは無視できないものがあるのか、
結果論にはなってしまいますが、今回の場合は後者かもしれません。

北越戦争やその後の長岡の復興において、牧野のお殿様の名前ってあまり出てこないで、
藩士の皆様の名前を目にすることがほとんどです。
戦争になってしまったのは残念でしたが、実力のある藩士の皆様が活躍できたその後ろに、
牧野のお殿様もいらっしゃったのかな・・・とも思いました。
  

2021年03月30日 Posted by きたゆき at 13:02Comments(0)独り言長岡市

三島億二郎日記を読んでみた 1

長岡市が出している三島億二郎日記を読んでみました。
三島億二郎は河井継之助、小林虎三郎と同じく幕末に佐久間象山から学び、幕末~明治~の長岡・新潟を支えた偉大な方です。
先日UPした河井継之助の建白書に続き、幕末・明治期の日本・新潟がどのような様子で、どのような考えを持った方がいたのか?
真相が知りたくて本を購入しました。
少しずつ読み込みながら、気になった部分を記載していこうと思います。
この日記の巻末の解説にもございましたが、当日記には三島億二郎の日々の備忘録、所感、漢詩、メモなどが記載されています。
現代でいうところの手帳のようなものかな?という印象を受けました。


今回は日記の中の明治10年2月2日に記載された「中庸論」の部分を読み解いてみました。
中庸という(書?)のは孔子の孫の子思(紀元前483?~402?)の作といわれています。(下記文献より)
私は専門家ではないので、失礼を承知で大雑把に「中庸」の内容を説明すると、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」を丁寧に説明した内容になります。
中庸=心技体のバランス感覚 といったところでしょうか?
昔、人の上に立つ人はこのような本で物事の考え方を学んでいました。

三島億二郎が中庸論を日記に記載した理由が、何か講義のようなものを受けて(当時か以前受けたものかは不明)書いたのか?
いきさつまでは読み解くことができませんでした。ただ、その当時の世の流れに対して思うところがあったから記載したのだと思います。


無い頭で漢和辞典を片手に読みました。
内容としてはおおよそ次のような理解でおります。
一部、漢字がどうしても分からなかった部分などもあり、現代語訳できなかったところもあります。

以下---------------------------------------------
世の人の中庸を失うことのなんと酷いことか。今の天下で往々にして、偏らず、党派的に(多数に流され)なりすぎず、個人的になりすぎず、やりすぎず、及ばないこともなく、良く中庸を全うする者が〇〇(漢字が分からず)となり、今我々の社会のあり様を見てごらんなさい。
着実温厚で徳のある行いに努める者は愚直に沈み、
進退活発で知識にあくせくとしてゆとりの無い者は軽はずみに物事に関わり、
俗事に奔走するものは〇〇(漢字が分からず)として退けられ、
丁重尊大で世の中を気に食わないと思っている人は、心が狭く頑愚と見られて拒絶される。

皇学者(古事記・日本書紀を探求して日本本来の精神を明らかにする人)は皇統を崇め従って自分の権利を捨ててしまい、
漢学者は過ぎ去った過去を大事にするばかりで現在を見下げ、
洋学者は西洋に心酔するばかりで日本を愛する事をどのようにするか考えず、
若い者は進むこばかり考えて、退くということを知らず、
年を重ねたベテラン儒学者は退くことは知っているが、進むということを知らず、
学者は宗教者の間違い事を指摘するが、宗教者によって成された結果的に正道に叶う事柄には理解を示さず、
宗教の徒は学者の不敬に対して抗議はするが、いまだ驕り高ぶってすべきことを怠り、世間から歌や芸をする人だという印象を払拭できていない。

飾り気がなく律儀でも言動が下品で卑しい人は、いくら徳を守り義があって誠実で人情が厚くても野蛮人と見るべし。

旧態を守ろうとする人は頑固で新しい事を受け入れず古い事に固執し、
急進論者は過激になり、
段階を追って少しずつ進む人はいつまでも煮え切らずとどまってしまう。

子供を溺愛しすぎるあまり善良な人間に導くこと(教育すること)を怠る両親あれば、
孝行(子供が親に尽くすこと)を固守して(親が固守させて)精神の発達を忘れる子供もいる。

正直で律儀であることも、度が過ぎて馬鹿といわれる人もいれば、
感覚が鋭すぎて狡猾と言われてしまう人もいる。
寛大すぎてお金のやりくりを考えない人もいれば、
倹約が過ぎてケチだとあざけられる人もいる。

意思がしっかりしていて思い切って事を行っても失敗の多い者もいれば、
古いしきたりに何が何でも従うだけで、チャンスを失う者もいる。

精神ばかりを磨く者は体が貧弱な様子となり、
体ばかり鍛える者は精神がおろそかになって鈍くなる。

分別なく疑ってばかりの人は世の信用を失い、
分別なく信ずる者は予期しないところで失望されてしまう

過度に失望する人は再起の気力を失い
希望が過度な人は予期しないところで食い違いを招く。(楽観的すぎて一貫性が無くいい加減ということか?)

分別なく喜ぶ人はあるときは分別なく悲しみ、
分別なく人を悪く言う人はある時は分別なく人を誉め、
分別なく人を愛する者はある時は分別なく人を憎む。

理論家は実際に現場で手を下す人が軽率であることを馬鹿にし、
実際に手を下す人は理論家の回りくどさを笑う。

下戸は上戸の酒を飲むことを笑い、
上戸は下戸が牡丹餅を食べることを笑う。

中庸もバランスを失えば、
用心は臆病となり、
不屈の精神は頑愚となり、
尊敬はかえって人をあざけって馬鹿にすることになり、
自由はわがままとなる。

仁義礼智信(儒教で大事な五つの徳)も間違ってしまえば、
婦人の仁、※1
侠客(ヤ〇ザ)に義があり、
太鼓持ちに礼があり、
盗賊にわきまえがあり、
〇(記載なし)に信がある。
ということになる。

偏らず、傍観せず、党せず、私せず、過ぎたるは及ばざるなく分別をもって中庸で言われていることを得るのは、
実際にはなかなか難しいことであります。

以上--------------------------------------------------

今も昔も悩む部分はそれほど変わっていないような気もしました。

※1
婦人の仁
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14146369379

文字面だけ見ると、なんで女性の仁が良くないのか?と思われることと思います。
この言葉は司馬遷の「史記」で韓信が劉邦に語った項羽の評価だそうです。
意味としては、泣いている人を見て可哀そうになって思わず助けてしまった後、
その人が元気になって活躍し始めると冷たく接してしまうような様子。
その人の活躍が心から喜べない。(泣いている人を見てただ手を差し伸べるだけで終わってしまうことは薄情で真心がない)
というような意味だそうです。

この言葉は史記の文脈まで理解していないと、現代の私たちでは正確に意味が捉えられない言葉だと思います。
こういった言葉を当たり前に使いこなせた三島億二郎や当時の周囲の人々は教養があったのだなと思いました。

参考文献
三島億二郎日記 長岡市
岩波文庫 金谷治 訳注 大学・中庸  

2021年02月11日 Posted by きたゆき at 22:24Comments(0)長岡市

河井継之助の建白書を読んでみた

今回はコロナ調査はお休みします。

先週の休みは雪退けに追われ、武漢コロナで遊びにも出られず…という事で、長岡市が出している、「山本有三著、米百俵 小林虎三郎の思想」に書かれた、河井継之助が朝廷に上表した「建白書」を読んでいました。
動機については末尾に書きます。

私の無い頭でおおよその現代語訳を書いてみます。

「(前略)保元の乱(保元元年:1156年)以来、政権が朝廷から武士に移りました。
その後、様々な人が天下を治めようとしたが上手くいきませんでした。
徳川氏の天下となって数百年続いた戦乱の世が終わりました。
徳川氏の治める世は、大変な苦労をしていた万民を救済し、古今の事情を見通して大きな事件や事故もございませんでした。
朝廷からも万事お任せいただいておりました。
もし、徳川氏が途中で政権を朝廷にお返しになっていたら今日までの平和な世は無かったでしょう。
これは神国の御威光と徳川氏先祖代々の君主のお働きがあったからと存じます。
(中略)、今日至りましては、初めは外国人を打ち払え(攘夷)と言っていた者も逆に外国と手を組むようになりました。
初めから攘夷など不可能だと分かっていたはずです。(蒸気で動いて大砲で攻撃できるような黒船等をみれば国力の違いぐらい分かるでしょ?←私が勝手に書いた心の声)
朝廷の皆様にあらせられましても、以前は攘夷と言っていながら今では彼らと同じように方向が変わってしまい、一貫性が見られません。
恐れながらご反省すべきと存じます。
朝議から出たものでも宜しくないもので、(これのせいで)朝廷を敬う(尊皇の)人々が、尊皇の名に任せて無茶な攘夷に走ったものとも推察致します。
(中略)皇国の第一人者である徳川氏の疲弊は、単に徳川氏の疲弊ではなく、皇国の疲弊であります。
不相応な身分の者が失礼とは存じ上げますが、お願い申し上げます。
しばらくの間は、人々の「尊皇」にお喜びなさることなく、再び万人が戦国時代のような苦労に見舞われる恐れに憂慮頂きたく存じます。
これまで通り、万事徳川氏へ政治を委任なされる以外に治安を安定させる道はないと存じます。(後略)
藩主牧野の代理、河井継之助」

※この建白書は徳川慶喜公の大政奉還の直後に朝廷に渡されたものです
※徳川氏の疲弊と言っています。薩摩藩とイギリスの戦争の後処理で薩摩藩がイギリスに支払うべき費用を事実上代わりしたり。
長洲征討やらなんやらでお金を使ったり。といったような部分のことでしょうか?

河井継之助が、徳川氏が疲弊したと言っても、当時、徳川氏にはまだまだ力はありました。
継之助もその辺りを分かった上で徳川氏に任せるように言っているのだと思います。
内戦が始まってしまえば民が苦しむのは当然です。
さらに内戦で国力が疲弊すれば、諸外国に植民地にされてしまう恐れがありました。と、言うところまでは継之助は理解していただろうと推察します。

また、朝廷を批判し、考えを訴えるわけですから決死の覚悟だったと思います。

諸説ありますが、仮に江戸幕府がなくなったとして、誰が日本の政治をするか?海外の知見がある人材が日本にどれぐらいいるか?
と、考えた時、徳川幕府の人材というのは無視できなかった筈です。
(それまでは日本を統治していましたし、外国にも人を派遣したり、交渉したりと経験のある人は少なからずいたと思います。)

と、いうところも継之助は分かっていたのではないでしょうか?
薩長だけでは日本を治めるには荷が重すぎると。

おかしいと思った所を理路整然と言えるところに、少し直江兼続と直江状に似ているな、とも思いました。

直江状は有名ですが、この建白書も同様にもっと評価されても良いのではないか?と個人的には思います。

冒頭に書いた本記事の動機について。
戊辰戦争の結果、新政府軍が勝利し明治維新となりました。
勝てば官軍負ければ賊軍の言葉がありますが、以降の歴史では新政府軍に都合の悪いことは極端な話、黙殺されたのではないかと考えています。
もしかすると明治維新は我々が今日知る内容とは少し異なる部分があるのではないか?
河井継之助の建白書等に事の真相のヒントがないか?
気になったというのが動機です。
武漢コロナが落ち着いたら取材の旅等に出てみたいと思います。  

2021年01月15日 Posted by きたゆき at 00:57Comments(0)長岡市

河井継之助さん 映画化

久しぶりの更新と生存報告などしつつ。

河井継之助さんが映画化されると言うことで一言です。
もはやどのようなことを考え行動したかはご存知かと思いますので割愛します。

長岡の歴史を語る上で私が大事だと考えるのは、焼け野原にされても不死鳥のごとく復活し立ち直ってきた経験だと思っています。

河井継之助さんが新政府軍の言い分に対して物申し、結果的に戦争になって長岡藩は負けてしまい、町は焼け野原になってしまいました。
理想を求め命をかけたが叶わず負けてしまう。
美しい生き様だった~…みたいな話はよくあるのですが、それは長岡の歴史の真価ではないと思うのです。

長岡のご先祖様が残してくれた歴史という体験談には、このあと何を考え、どのようにして復活したのかという重要な実績があるのです。
復興をあきらめていたら米百俵の物語も生まれなかったことでしょう。
いまの時代に必要なのは、理想を追い求めることも大事ではありますが、現実と未来を見据えて、その場しのぎでない行動、判断ができるかだと思うのです。

ぜひ河井継之助さんが道半ばで斃れて可哀想でおわるのではなく、その先の物語があることを忘れないで欲しいなと思います。

追伸
某展示館で、長岡藩が負けたのは新潟港の守備隊についていた新発田藩が裏切ったからだ的な表記をみかけました。新発田藩には新発田藩の悩みもあったわけですし、長岡藩一藩で柏崎、新潟の港と峠を越えてくる新政府軍を相手にすることじたいに無理が…な気もします。
新発田藩の悩みは調べると結構エグい話になるので…
会津藩に対する見方が変わるかもです。

まぁ昔のことですし、皆さん仲好くしましょうね。  

2018年12月20日 Posted by きたゆき at 21:55Comments(0)長岡市

大萱場古墳



大萱場古墳
場所は8号線を長岡から柏崎方面へ。雪国植物園の近くの工業団地の中にあります。

直径15mぐらいの円墳が、少し高台になった場所にありました。

立て看板によると、亡くなった方をおさめる場所に火を炊いた形跡があるそうです。
火葬したのではないかという説があり、新潟では唯一だそうです。

長岡市はこの他、麻生田という場所に古墳群があるそうなので、探してみたいと思います。

やはり新潟県の古墳は今でいう平場(昔の沼の底?)にはすくなく、山の上や森の中に隠れていて、一般人の目にはあまり触れないようです。  

2016年01月18日 Posted by きたゆき at 01:33Comments(2)長岡市ブログのご案内

商店街 長岡駅前





長岡駅前です。

長岡駅のある場所は元々は長岡城があった場所ですので、
ここは城下町になります。

老舗のお菓子屋さんがちらほら。
他、特徴的なのが、昭和からのレトロな感じの喫茶店や食堂が
まだまだ沢山残っているところです。
散策のやりがいがあります。

写真は駅前の空中通路ですが、
やはり冬場の悪天候にはこれは有効でしょう。
傘がなくても市役所まで行ける。

また、長岡市の町は基本的にほとんどがアーケード付きなのも嬉しい。


個人的には、新潟市も見習って欲しいなと思うわけです。
新潟駅前は万代口も南口もほぼ雨ざらし状態。おまけに市役所や県庁は中途半端に遠いし、アクセスも微妙。

東京の真似ばかりしていないで、
もう少し理想と現実を考えてもらえないだろうか・・・

冬場のどんな悪天候でも、
傘の心配をしないで歩ける町というのは、日本海側では魅力かなと思います。


  


2015年05月16日 Posted by きたゆき at 19:32Comments(0)長岡市

越後の大名展に行ってきました

先日、越後の大名展を見に、新潟県立歴史博物館に行ってきました。写真はクイズに正解するともらえる家紋シールです。

大変興味深い内容でした。
昔の街道と今の国道の関係。城の位置と城を造った理由。大名の出身地やプロフィールの話。大名の領地等々。

城下町の地図なども多数展示されていました。
自分は時々商店街の町歩きをしたりしますが、その時の地図と今回見た地図を頭の中で重ね合わせると、一致する場所や今も変わらずのこる交差点等を発見することができて楽しかったです。

何気なく見ている町の風景もちゃんと理由があってそうなっているんですよね。

欲を言うと、大名が各地で行った政策なんかも見られたらもっと楽しかったかなと(新田開発、村上の鮭、三条の和釘等)

自分の町のルーツを知る貴重な手がかりになるかもしれません。

  

2011年08月28日 Posted by きたゆき at 23:58Comments(2)長岡市

北越戊辰戦争について

物事には最低でも2面性があるというお話。

これは、長岡市で起きた北越戊辰戦争にまつわるお話です。

北越戊辰戦争とは、幕末に起きた新政府軍と長岡藩の戦いです。
新政府軍の強引な倒幕のやりかたに疑問を覚えた長岡藩が、新政府軍にちょっと待てをかけようとします。
しかし、停戦・和平は受け入れられずに戦争が始まってしまいます。

当時、長岡藩の中心的存在だった河井継之助が長岡の軍を指揮し、一進一退の攻防を繰り広げます。
しかし、長岡の町は焼け野原となり、河井さんも受けた弾丸の傷がもとで亡くなってしまいます。

「河井さんさえいなければ長岡が焼け野原になることは無かったんだ!」
「新政府のやり方が多少気に食わなくても黙っていれば‥‥」
と言ったお話もあるそうです。
こういった方々かは分かりませんが、長岡にある河井さんのお墓の墓石には何かで叩かれたような傷があるそうです。


この、焼け野原になった長岡から米百俵の逸話が始まります。
ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、小林虎三郎にまつわるお話です。

「これからの世の中を良くするには、教育が一番大切なのだ。食えないときだからこそ食えるようになるために勉強をするのだ。」
そういって小林さんは、お見舞いに送られた米百俵を売って、書籍などの購入費に当てました。

小林さんがたてた学校からは様々な人が世に出て活躍しました。東京帝国大学総長、銀行の創始者、明治憲法を考えた方、‥‥


ここで、北越戊辰戦争が良かった悪かったについては言いません。

ただ、歴史的事実として、新政府軍と戦って長岡藩は破れた。その後の復興で米百俵の話が生まれ、長岡の人々の一つの誇りとなっている事は紛れもない真実です。  

2011年03月28日 Posted by きたゆき at 02:30Comments(0)長岡市

与板城跡・与板の神社

与板城跡の頂上より


このお城がいつの頃からあったのかははっきりしていないそうです。
地図を見ると、お城の周辺には「堤下」「前町」などの地名が見られますが、関係があるのでしょうか?
「堤下」の近くには小さな川が流れていましたが。
また、ちょっと見づらいですが、写真中央を流れているのが信濃川です。
昔と今の川の形は違うかもしれませんが、水運の要所だったそうな。
また、こちらの統治者が鍛冶などを奨励したことがあるそうで、先日のブログに書いた刃物屋さんはそこに関係があるのかもしれません。


商店街の近くに都野神社という神社があるのですが。


物凄く由緒のある神社だそうです。
祭神の中には宗像三女神にあたる神様の名前もありました。玄界灘、広島厳島神社、水運に関係する神様です。

ふと気が付くと、町歩きの時にはその町の一番古いものを探しているな、自分。  


2011年02月04日 Posted by きたゆき at 19:17Comments(0)長岡市

商店街 与板編

与板の商店街


とっても長い商店街。加茂の商店街に負けず劣らず大きいです。
刃物・金物屋さん、お茶屋さんがありました。


他にも与板の名物と言えば


この大判焼きです。通常よいも一回り大きい。
行列ができる大判焼き屋さんです。お腹いっぱいでした。おいしかったface01

他にもこんなものが・・・

日本のビールをつくった方の出身地だそうです。

与板はとても歴史のある場所で、場所によっては古銭が出たり土器がでたりするそうです。
戦国期の直江兼継公でも有名です。
江戸時代には与板藩があり、治めていたのは常在戦場で有名な牧野氏、井伊の赤備えで有名な井伊直正公の血縁の方。
凄い方がいらっしゃったんですね。
現在の商店街の場所にお侍さんが住んでいたり、代官所があったりしたそうです。

中越地方は凄い方が沢山いらっしゃってうらやましい。
  


2011年01月26日 Posted by きたゆき at 17:49Comments(0)長岡市

山本五十六さんと 斎藤博さん

今回は長岡市にご縁のある二人の人物をご紹介します。

先の大戦で聯合艦隊の司令長官だった山本五十六さん。
もう一人は、日米開戦直前に亡くなったアメリカ大使の斎藤博さんです。

お二人とも長岡の中学校の野球部の顧問?として働いていた仲で、ワシントン軍縮会議にも参加しており、海外経験も豊富だったそうです。お二人とも日米開戦を避けるために奔走しました。

斎藤さんについて、大使というのはその国で一番偉い外国人。在米日本大使なら、アメリカで一番偉い日本人になります。大雑把ですが‥‥‥
アメリカ人外交官に「俺より英語が上手く、アメリカに通じている」と言わせるほどのアメリカ通だったそうです。
斎藤さんは「パネー号事件」で活躍します。検索してみてください。

その後、斎藤さんは肺の病で亡くなり、アメリカ大統領ルーズベルトは弔意を示し命令で遺骨は日本に送られたそうです。

山本さんも、真珠湾奇襲の直前まで「もし、和平が成れば直ちに帰還するように」との命令を出していました。

山本さんが真珠湾の奇襲の時に書いた書には(これは山本さんの死後はじめて人目に触れたそうです)
「今回の戦争には思うところがあるが、自分の名を惜しんだり私心があっては勤まらないと覚悟している。大君の盾になるならば、名も命も惜しみません」
との事が書いてあったそうです。

「思うところ」というのが何なのか、感じるところは人それぞれと思いますのであえて書きません。


相手を知り己を知り、その上で何を主張すれば自国の利益になるのか‥‥外交の失敗はともすれば国の存亡に関わります。
友達のように簡単に握手をしたり、気に食わないからといっていきなり殴りかかるといった単純な感覚では良い外交はできないのかなと思います。

国どうしの付き合い方は思った以上にドライなものなのかもしれません。  

2010年11月07日 Posted by きたゆき at 23:16Comments(1)長岡市

人物伝

  小林虎三郎の本を読みました。face01
「山本有三著 米百俵 小林虎三郎の思想」



 何年か前に米百俵政策というのがブームになりましたが、自分は理由あって、ブームになる前に出版されていた本を探していました。そして見つけたのがこの本でした。

 知っている方が多いと思いますが、幕末の戊辰戦争で焼け野原となった長岡を復興させようと学校を建てた人です。国の盛衰はことごとく人にある、人を育てるために学校を作るというのが虎三郎の考え方です。三根山藩からお見舞いで送られてきた百俵の米を売って、そのお金で学校をたて、多くの人物を世に送ることとなりました。卒業生は長岡の復興だけに留まらず、広く日本で活躍したそうです。
 
 やはり、この考え方をブームで終わらせたらあかんと思うface01

 

   
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2009年06月18日 Posted by きたゆき at 18:37Comments(0)長岡市

国漢学校発祥の地

 長岡市の昌福寺というお寺です。
 国漢学校発祥の地という碑が建っていました。小林虎三郎が、明治の初めにここで学校を始めたそうです。そして、掲げられていた文字がこの写真。



 ちょっとわき道ですが、上越市、春日山の林泉寺にも同じ文字が掲げられていました。上杉謙信が禅の修業をしたところです。

 第一義の意味は辞書的なものですが
1 (仏教で)究極の真理。
2 最も大事な根本の意義。本質的で最上の価値あること。(広辞苑)

 
 この学校で学んだ人々が様々な場所で活躍したのでしょうね・・・

    
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2009年06月10日 Posted by きたゆき at 10:47Comments(0)長岡市

長岡の古本屋さん

 以前の記事で、新潟県の人の伝記が新潟市に売っていないと書きました。新潟市の古町に以前にあった古本屋も何度か行ってはみたのですが、あいている様子がない。やめてしまったのでしょうか?face06

 そんなわけで我慢できずに長岡市へ。駅中の本屋には、新潟市よりもずっとたくさん、郷土の人の本が置いてありました。しかし、ここでは買わず、長岡市街地の古本屋探しへ。河井継之助記念館など見学しつつ古本屋を探してみました。記念館の方に伺ったところ、4件ぐらいありますよといわれ、地図を片手に古本屋巡り。face01

 古本屋に入って見たら、自分の欲しい本があるわあるわface08予算の関係で2冊しか買えませんでしたが、来たかいがありました。機会があればまた行くかもしれません。  


2009年06月09日 Posted by きたゆき at 11:13Comments(2)長岡市

明治の人は

  写真は長岡にある米百俵の群像です。



  米百俵の精神からか長岡には、大きな仕事をなさった方がたくさんいらっしゃるように感じます。郷土にそんな方がいらっしゃる場所はうらやましいです。

  明治時代やその後に活躍した方って、幕末の志士の陰に隠れてしまってあまり目立たない存在になりがちなのですがそんなことは全然ないと思います。
 まったくの主観ですが自分の受験勉強なんか生ぬるいもので、昔の方はもっと沢山勉強したんだろうなと感じています。とくに政治、経済の世界で活躍したような方は。

 そういった方の伝記をたくさん読んでみたいのですが、近辺の本屋さんにはあまり並んでいません。文献を紐解くしかないのか自分・・・icon11  
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2009年05月26日 Posted by きたゆき at 23:45Comments(2)長岡市

長岡城跡 長岡城址

 長岡城跡の石碑  長岡駅大手口のバスターミナルにあります。



 現在の長岡駅の場所がかつて長岡城があった場所だそうです。城があったのは江戸時代の初期から幕末にかけてで、幕末の戊辰戦争で焼失してしまいました。なので、城の名残は現在の長岡駅周辺の地名(大手 等)ぐらいしか残っていないそうです。石垣の一部が悠久山公園の資料館に使われているとのことです。

 長岡市は2度の戦災を受けていて、一つ目が戊辰戦争、二つ目は太平洋戦争時の空襲です。2度の戦災のせいで長岡の町は焼け野原となってしまい、他の城下町に比べて昔から残っているものが少ないのかなと思います。こうして考えると、城と城下町が残っている場所は改めて貴重なものだと感じました。  
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2009年03月27日 Posted by きたゆき at 13:47Comments(0)長岡市

川口町の思い出

この写真はどこでしょう。





中越の川口町の山からの朝の風景です。ひょんなことから去年の8月の末ごろに行ってきたのですがこの景色を見て感動しました。(写真技術が幼いので感動がイマイチ伝わらない・・・・・)まるでもの○け姫の世界でした。雲が目線の下にありますface08ちょっと寒かったけれど気持ちよかったです。

今日はあまり多くを語らんとこ・・・・  

2009年02月13日 Posted by きたゆき at 17:57Comments(0)長岡市