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河井継之助の建白書を読んでみた

今回はコロナ調査はお休みします。

先週の休みは雪退けに追われ、武漢コロナで遊びにも出られず…という事で、長岡市が出している、「山本有三著、米百俵 小林虎三郎の思想」に書かれた、河井継之助が朝廷に上表した「建白書」を読んでいました。
動機については末尾に書きます。

私の無い頭でおおよその現代語訳を書いてみます。

「(前略)保元の乱(保元元年:1156年)以来、政権が朝廷から武士に移りました。
その後、様々な人が天下を治めようとしたが上手くいきませんでした。
徳川氏の天下となって数百年続いた戦乱の世が終わりました。
徳川氏の治める世は、大変な苦労をしていた万民を救済し、古今の事情を見通して大きな事件や事故もございませんでした。
朝廷からも万事お任せいただいておりました。
もし、徳川氏が途中で政権を朝廷にお返しになっていたら今日までの平和な世は無かったでしょう。
これは神国の御威光と徳川氏先祖代々の君主のお働きがあったからと存じます。
(中略)、今日至りましては、初めは外国人を打ち払え(攘夷)と言っていた者も逆に外国と手を組むようになりました。
初めから攘夷など不可能だと分かっていたはずです。(蒸気で動いて大砲で攻撃できるような黒船等をみれば国力の違いぐらい分かるでしょ?←私が勝手に書いた心の声)
朝廷の皆様にあらせられましても、以前は攘夷と言っていながら今では彼らと同じように方向が変わってしまい、一貫性が見られません。
恐れながらご反省すべきと存じます。
朝議から出たものでも宜しくないもので、(これのせいで)朝廷を敬う(尊皇の)人々が、尊皇の名に任せて無茶な攘夷に走ったものとも推察致します。
(中略)皇国の第一人者である徳川氏の疲弊は、単に徳川氏の疲弊ではなく、皇国の疲弊であります。
不相応な身分の者が失礼とは存じ上げますが、お願い申し上げます。
しばらくの間は、人々の「尊皇」にお喜びなさることなく、再び万人が戦国時代のような苦労に見舞われる恐れに憂慮頂きたく存じます。
これまで通り、万事徳川氏へ政治を委任なされる以外に治安を安定させる道はないと存じます。(後略)
藩主牧野の代理、河井継之助」

※この建白書は徳川慶喜公の大政奉還の直後に朝廷に渡されたものです
※徳川氏の疲弊と言っています。薩摩藩とイギリスの戦争の後処理で薩摩藩がイギリスに支払うべき費用を事実上代わりしたり。
長洲征討やらなんやらでお金を使ったり。といったような部分のことでしょうか?

河井継之助が、徳川氏が疲弊したと言っても、当時、徳川氏にはまだまだ力はありました。
継之助もその辺りを分かった上で徳川氏に任せるように言っているのだと思います。
内戦が始まってしまえば民が苦しむのは当然です。
さらに内戦で国力が疲弊すれば、諸外国に植民地にされてしまう恐れがありました。と、言うところまでは継之助は理解していただろうと推察します。

また、朝廷を批判し、考えを訴えるわけですから決死の覚悟だったと思います。

諸説ありますが、仮に江戸幕府がなくなったとして、誰が日本の政治をするか?海外の知見がある人材が日本にどれぐらいいるか?
と、考えた時、徳川幕府の人材というのは無視できなかった筈です。
(それまでは日本を統治していましたし、外国にも人を派遣したり、交渉したりと経験のある人は少なからずいたと思います。)

と、いうところも継之助は分かっていたのではないでしょうか?
薩長だけでは日本を治めるには荷が重すぎると。

おかしいと思った所を理路整然と言えるところに、少し直江兼続と直江状に似ているな、とも思いました。

直江状は有名ですが、この建白書も同様にもっと評価されても良いのではないか?と個人的には思います。

冒頭に書いた本記事の動機について。
戊辰戦争の結果、新政府軍が勝利し明治維新となりました。
勝てば官軍負ければ賊軍の言葉がありますが、以降の歴史では新政府軍に都合の悪いことは極端な話、黙殺されたのではないかと考えています。
もしかすると明治維新は我々が今日知る内容とは少し異なる部分があるのではないか?
河井継之助の建白書等に事の真相のヒントがないか?
気になったというのが動機です。
武漢コロナが落ち着いたら取材の旅等に出てみたいと思います。  

2021年01月15日 Posted by きたゆき at 00:57Comments(0)長岡市