足尾銅山 新潟との繋がり
これはかなり前の話になりますが、
足尾に行ってきた時の写真です。
写真右が足尾銅山の精錬所の跡です。
写真に写っている山を見ると、木が生えていない部分が結構あります。
銅山の場所は栃木県西部の旧足尾町です。現在は日光市の一部になっています。
銅山の歴史は古く、江戸時代ころまでさかのぼります。
当時の銅の産出量はなかなかのもので、江戸時代に使用されていた銅貨のうち、足尾で鋳込まれた
銅貨は、「足」の鋳出し文字があるそうです。
大正時代の足尾町は宇都宮に次ぐ人口規模だったそうです。
鉱毒事件については他で詳しく紹介されておりますので深くは触れません。
銅の採掘は昭和の中期~後期頃まで続いていたそうです。
この銅山と新潟との関係についてですが、
あまり有名ではありませんが、新潟県の現阿賀町、鹿瀬にも銅山がありました。
名前を草倉銅山と言います。
江戸時代の会津藩領時代から大正時代ころまで銅の採掘が行われていました。
言ってしまうと、この草倉銅山の経営者と足尾銅山の経営者が実は同じ人だった
ということが、新潟と足尾の繋がりになります。
草倉銅山の閉山後、鉱夫達は足尾に移動して働いていたと記載されている資料もあります。
というようなことを足尾銅山に行って初めて知りました。
いずれ草倉銅山にも偵察に行ってこようかと思います。
次回の投稿はまた別の鉱山?のお話になります。
足尾に行ってきた時の写真です。
写真右が足尾銅山の精錬所の跡です。
写真に写っている山を見ると、木が生えていない部分が結構あります。
銅山の場所は栃木県西部の旧足尾町です。現在は日光市の一部になっています。
銅山の歴史は古く、江戸時代ころまでさかのぼります。
当時の銅の産出量はなかなかのもので、江戸時代に使用されていた銅貨のうち、足尾で鋳込まれた
銅貨は、「足」の鋳出し文字があるそうです。
大正時代の足尾町は宇都宮に次ぐ人口規模だったそうです。
鉱毒事件については他で詳しく紹介されておりますので深くは触れません。
銅の採掘は昭和の中期~後期頃まで続いていたそうです。
この銅山と新潟との関係についてですが、
あまり有名ではありませんが、新潟県の現阿賀町、鹿瀬にも銅山がありました。
名前を草倉銅山と言います。
江戸時代の会津藩領時代から大正時代ころまで銅の採掘が行われていました。
言ってしまうと、この草倉銅山の経営者と足尾銅山の経営者が実は同じ人だった
ということが、新潟と足尾の繋がりになります。
草倉銅山の閉山後、鉱夫達は足尾に移動して働いていたと記載されている資料もあります。
というようなことを足尾銅山に行って初めて知りました。
いずれ草倉銅山にも偵察に行ってこようかと思います。
次回の投稿はまた別の鉱山?のお話になります。
2014年06月27日 Posted byきたゆき at 20:18 │Comments(0) │県外から新潟を見ると
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