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最上義光公のこと

山形市の礎をつくった最上義光公。
山形市に記念館があり、伺ってまいりました。
ボランティアガイドの方のわかりやすい案内と説明にかなり助けられました。

で、この方と新潟に何の関係がということなのですが、
大雑把には現在の山形県にあたる地域の覇権を、
越後上杉氏などと争った方になります。

このあたりのながれについては、伊達氏、大宝寺氏、上杉氏などが複雑に絡んでくるため、
大雑把な説明になりますが、興味があるかたは調べてみてください。

いかにも戦国時代らしい、政略、謀略、裏切りなどの駆け引きがありました。

この最上義光公が直接あるいは間接的に戦った上杉家の家臣は、
現在の新潟県村上市にある村上城にゆかりのある本庄繁長公と
直江兼続公になります。

本庄繁長公は当時庄内にいた大宝寺氏と仲が良く、
庄内の覇権をねらう最上義光公に対して大宝寺氏を支援しています。
繁長公自身は当初、新発田重家公のとの戦いで身動きが取れなかったせいで十分な支援ができず、
庄内の覇権は一度は最上義光公のものとなります。(1580年代)

しかし今度は、伊達氏と最上氏の戦いがはじまり、
この隙を狙って上杉方の本庄繁長公が庄内に侵攻し奪還します。



時代は関ヶ原合戦のあたりまで進みます。(1600年頃)
某ドラマで記憶されているかたもいるかと思いますが、
上杉景勝公は関ヶ原では西軍につきました。
一方の最上義光公は東軍につき、関ヶ原の戦いの地方戦として、
上杉方の直江兼続公と最上義光公が再び山形で激突します。
長谷堂城の戦いと呼ばれる戦いで、直江兼続公率いる約2万の軍勢にたいして
最上軍は7千程度で防衛に当たり、上杉軍を退けました。

これらの覇権争いが行われた地域には、
最上川と酒田港という物流の要があったため、魅力がある場所だったそうです。


この後、上杉家は東軍に逆らったため、米沢へ転封。
最上義光公は功を認められ山形藩57万石の大名となったそうです。
(米沢藩と山形藩は地図でみると境界が接しているし、米沢藩の南は会津藩だし、米沢の上杉氏もなかなか落ち着かない場所だったでしょうか)


これだけ聞くと最上義光公は戦人のようなイメージをもつのですが
連歌の心得があったり、山形の街の基礎をつくったりと文武両道の優秀な方だったようです。

戦国時代の話となると相手のいる話になるので、新潟県内を回っているだけでは
なかなか真相にはたどり着けません。
今回の旅は良い勉強になりました。

最上義光公のこと


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2015年05月05日 Posted byきたゆき at 22:40 │Comments(0)村上市県外から新潟を見ると

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