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Posted by LOGPORT運営事務局 at

長岡市 摂田屋


長岡市の摂田屋です。
醸造の町をPR中。酒屋さん、醤油屋さん、味噌屋さんが集まっている地区です。
ちょっと良い国産大豆の味噌を試したくなり、行ってきました。



「NPO法人 醸造の町摂田屋まちおこしの会」
で作られた分かりやすい地図がその場にありましたので、写真を撮らせて頂きました。
クリックすると大きくなります。


注意として、駐車場の位置を事前に確認してから行かれると良いかと思います。





町並はこんな感じです。ちょっとお散歩気分で行ってみるのもよいかもしれません。時々香る、味噌、醤油、酒?が良い感じです。軽食等もできる場所があります。

追伸
小林虎三郎の興学私議ですが、ようやく読み終わりました。これから説明用の資料作りに入ります。ご紹介までもうしばらくお待ちください。

  

2021年06月06日 Posted by きたゆき at 13:54Comments(0)食い物長岡市

ヒメサユリ

数年前に購入したヒメサユリの鉢植えです。今年も元気に咲いてくれました。
ピンク色の可愛い花をつけてくれます。





日本原産の植物で実は絶滅危惧種なんですね。
勝手に野生の花を持って行ってはいけません。

新潟県内だと三条市の下田でヒメサユリの小径と呼ばれる場所があり自生地として有名です。
確か粟ヶ岳の登山道入り口の近くの集落の田んぼ周辺だったような(ちょっと記憶曖昧)。以前にお邪魔したことがあります。

地元の方が田植えの忙しい時期と花の時期が重なる事が多いです。
お邪魔にならないように気を付けましょう。

近況ですが、小林虎三郎の興学私議の読み解きがあと少しで終わりそうなので、注力しております。これが終わるまでは新潟の農業事情の調査はお休みします。
その他は身近な話題を中心にしばらく書いていく予定です。  

2021年05月15日 Posted by きたゆき at 22:27Comments(0)三条市

そば茶




八色の直売所で購入した"そば茶"です。
魚沼産のそばの実を使用しています。
袋の中身が写真右側の粒々になります。

熱湯で煮出してそば茶にして飲みますが、そのままスナック菓子感覚でポリポリ食べると、そばの素朴な風味を感じるおやつにもなります。

ポリポリ感が結構癖になります。。  

2021年05月09日 Posted by きたゆき at 10:45Comments(0)食い物中越

佐渡の「のしいか」




佐渡のお土産品。某日に佐渡で入手したものです。
シンプルにスルメを焼いて伸したものです。比較対照として投函されるときに折り畳まれた新聞を横に置いてみました。結構大きいです。


裏側はこんな感じ。
酒呑みにはお勧めの一品です。そのままで良し、あぶり直しても良し、七味マヨネーズも良いですね。

  

2021年05月02日 Posted by きたゆき at 09:46Comments(0)食い物佐渡

八色で買ったしいたけ





八色の直売所で購入した椎茸です。
八色しいたけは、そこらの椎茸と比べて大きいのと分厚いので有名ですが、上の写真のものは袋に何も記載がありませんでした。
何らかの理由で規格外だったのでしょうか?
(なので可哀想ながら「八色しいたけ」になれなかった子のようです。)

大きさはご覧の通りで、直径10cm強、厚さ約2cmぐらいでした。



シンプルにバター醤油で蒸し焼きにしました。
食べ応え十分です。通常の椎茸なら一口でおしまいですが、このしいたけはかじってもかじっても無くならない。
きのこだけでお腹一杯になります。

見た目はワイルドですが、味は大変上品でした。

  

2021年04月27日 Posted by きたゆき at 20:39Comments(0)食い物

新潟県の農業事情を調べてみた その6




このシリーズはちょっと難解なお話が続いたので、今日は身近なところからお話していこうと思います。

もしかしたら今回の記事は、お米の需要喚起のヒントになるのでは?
と勝手に考えています。
・・・最後に申し上げますが鍵になるかなと思って描いたのが冒頭のイラストメッセージです。


今日使用するデータは下記になります。
農林水産省 食料需給表 確報 品目別累年表
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00500300&tstat=000001017950&cycle=8&tclass1=000001032890&tclass2=000001151387&cycle_facet=cycle&tclass3val=0

農林水産省 米穀の需給及び価格の安定に関する基本指針 令和3年2月
https://www.maff.go.jp/j/seisan/keikaku/beikoku_sisin/


身近な話題というのは、一日当たりの食事から年間のお米の消費量を算出したら何か見えるか?というものです。
まず、私、きたゆき は以下のような食事をしております。



平日は基本的に3食ご飯
休日の昼にパン、あるいは禁断症状により、こってり背油ラーメン。
これを計算すると、1年間に93㎏程度、お米(炊飯前の重さ)を食べているようです。
後述のグラフでみると自分意外とお米の消費に貢献していたっぽいです。


一方、農林水産省のデータによると、
日本人一人当たりの「令和元年~2年」の需要実績は、
一人当たり56.6㎏と計算されるそうです。



これを きたゆき の時と同様に計算し、
茶碗一杯100gのお米として私の独断と偏見により割り振ります。上のイラストでも示しているように、

朝食:毎日パン
平日の昼食:ご飯と麺類のローテーション

という風に仮定するとピッタリと計算が合いました。

如何でしょうか?
私もひと昔前までは身に覚えのある献立表(?)みたいになりましたが・・・


この仮定がもし当たらずとも遠からずとすれば、
朝ごはんにお米を選択する余地のある人が実は沢山いるので、そこが狙い目かと思ったわけです。
朝ごはん抜いている方もいらっしゃるでしょうか?

お米の需要喚起を促すには、例えば「朝はご飯で今日も元気に」キャンペーンを
テレビ等で広報してみたら良いのではと思いました。

テレビの食レポでスイーツの内容をよく目にするようになって、
「スイーツ」という言葉(文化??)が定着したような所から見てもテレビの宣伝効果というのは大きいと思うわけです。

有名な俳優さんで家族の朝のひと時を演出し、みんながご飯を食べて行ってきまーす!!とか、
朝、ご飯を食べると健康に良いとか、やりようは如何様にもあるように思います。
※もしかすると海の向こうの某小麦勢力や、トウモロコシ勢力から横槍が入るかもしれませんが・・・


最後に、農林水産省の冒頭で述べたデータをグラフ化したものを示します。

「お米の需要実績、各年、年間、一人当たり」


需要量としては下降の一途のようです。
ご参考になりましたら幸いです。

  

2021年04月26日 Posted by きたゆき at 19:51Comments(0)データで分析 新潟県

新潟県の農業事情を調べてみた その5

前回の記事
きたゆきの新潟県放浪記 since 2008:新潟県の農業事情を調べてみた その4
http://yukiyakonkon0809.niiblo.jp/e491553.html



今回は平成元年~平成10年に注目します。
(生産農業所得の顕著な低下が始まった付近)

グラフは以下のデータを参考にしています。
★農林水産省
・新潟県の生産農業所得
・新潟県の米の収穫量
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00500206&tstat=000001015617&cycle=0&year=20180&month=0&tclass1=000001034290&tclass2=000001052259

★総務省
・全国の米類の消費者物価指数
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200573&tstat=000001084976&cycle=0&tclass1=000001085995&tclass2=000001085936&tclass3=000001085996&tclass4=000001085997&tclass5val=0




上記の矢印範囲を拡大したグラフを次に示します。

拡大したグラフに橙色で作況指数も記載します。
(以下を確認してみたいという個人的な興味からの参考値としました)
・収穫量と作況に相関性があるか
・その年の作況を確認する意図

表中カッコ無:全国の作柄 作況指数
参照元:農林水産省「作況指数、10a当たり収量及び一等米比率の推移」
https://www.maff.go.jp/j/study/suito_sakugara/h29_2/attach/pdf/index-10.pdf

表中カッコ付:新潟の作柄 作況指数
参照元:北陸農政局 「平成の米 新潟県」
https://www.maff.go.jp/hokuriku/stat/data/heiseikome/niigata.html



グラフから見て気になる部分として・・・

・①の平成5年の記録的な冷害の時の新潟県の生産農業所得:1,803[億円]
・③~⑥平成7年以降の生産農業所得で①平成5年を上回った年が無い
・③~⑥平成7年以降の作柄 作況指数はいずれも①の平成5年を上回っている
・米類の消費者物価指数は平成6年から減少傾向が続く
・お米の収穫量は平成6年から全体としては減少傾向


結論
お米の出来、不出来に関わらず収穫量、米類の物価指数、生産農業所得は平成6年をピークに低下傾向である。

このような結論から、以前からの結論と同様、生産農業所得の減少にはお米の収穫量と価格(物価指数)の低下が支配的だと推定されます。
平成5年の冷害の時のよりも平成7年以降の生産農業所得が軒並み低いといのもちょっと意外な結果でした。


平成5年~現在付近の分析については下記の記事で記載しましたので、恐れ入りますがそちらをご参照頂ければと思います。

きたゆきの新潟県放浪記 since 2008:新潟県の農業事情を調べてみた
http://yukiyakonkon0809.niiblo.jp/e491443.html


リンク先の記事でも話題に挙げましたが、お米の価格が平成6年をピークに減少傾向が見られます。

ちょっと中途半端な感じもしますが、今回はこの辺までとさせていただければと思います。

次回からは、お米の生産量の決め方等のお話ができればと考えています。

  

2021年04月19日 Posted by きたゆき at 20:19Comments(0)データで分析 新潟県

小林虎三郎の興学私議を読んでみた 1 ~はじめに~



「米百俵」のエピソードで有名な小林虎三郎ですが、虎三郎が書いた「興学私議」という論文があり、少しずつ読み進めています。これは「諸外国に負けないためにはどうするか?」「教育及び教育の仕組みはどうあるべきか?」という課題に対する小林虎三郎の考えを論じたものになります。

資料としては、
「山本有三 著 米百俵 小林虎三郎の思想」に漢文の原文と書き下し文が記載されており、これを漢和辞典片手に読み解いております。

長岡市立中央図書館のホームページにも原文と書き下し文が読める場所があります。
以下リンクです。

ながおかネット・ミュージアム
https://opac.lib.city.nagaoka.niigata.jp/museum/kyushidouikou/yomikudashi/bun02.html

※難解な熟語の解説がリンク切れ?になっているのが少しもったいないような気もします。



本件を調べようと思った動機は、
「教育が大事なのは分かるけど、どんな教育をしてどんな人材を育てれば良いの?もっと具体的に知りたい」
という興味。

そして、「明治維新、やったは良いが、庶民の暮らしは良くなった?」という疑問へのヒントになるのでは?という思い。

この2つが大きいです。


この「興学私議」は中々の長文で、どのようにブログ記事に記載しようかと考えました。
結果、
1回目.私の動機と「興学私議」が書かれたの時代背景をご説明させていただく
2回目.興学私議の本文の私なりの現代語訳(前後半等に分けるかもしれません)
3回目.考察
といったような形で整理しようかと考えております。
よろしくお願い致します。


それでは本題に入ります。
動機につきましては、既に申し上げましたので「興学私議」が書かれた時代背景を、
「山本有三 著 米百俵 小林虎三郎の思想」の ~隠れたる先覚者 小林虎三郎~
を参考に記載致します。

小林虎三郎は23歳で江戸に行き、その翌年に佐久間象山の門下で勉強を始めたとのことです。
ちょうどその頃ですが、
嘉永6年(1853年)に黒船来航
嘉永7年(1854年)吉田松陰が渡航失敗して投獄
というような出来事が起きていました。

小林虎三郎は、師匠の佐久間象山の意向もあり、当時老中だった長岡藩の牧野の殿様や大老の側近に横浜の開港を説いて回りました。
これが当時の安部大老の怒りに触れ、大老から牧野の殿様には「書生の分際でけしからん!」と言うような言葉があったようです。牧野の殿様もこうなっては虎三郎を江戸に置いておけなくなり、長岡に返したということです。

長岡に帰った虎三郎は謹慎となり、不幸にも難病にかかってしまいます。しかし、それでも筆は置かずに……という中で書かれた論文が「興学私議」になります。

この記事の続きは興学私議の内容について準備ができたらアップします。連休明けぐらいになるかもしれません。

半分以上は自分の興味から調べておりますが、もし本ブログの読者様にもお役に立ったり、楽しんでいただけるような内容にできたらうれしいな、と思いつつ整理して参ります。


  

2021年04月12日 Posted by きたゆき at 20:19Comments(0)長岡市

マグロの剥き身とかんずり





新潟の皆様なら御用達のかんずりについて、
マグロのすき身に一手間加えると美味しくなる(と勝手に思っている)レシピです。
かんずりの辛味と塩麹の風味が良い仕事をします。
参考材料分量は下記の通りです。

マグロのすき身:100g
醤油:大さじ1/2
ゴマ油:大さじ1/2
砂糖:小さじ1/2
かんずり:お好み

とりあえず、醤油、ゴマ油、砂糖、かんずりをよく混ぜます。混ざったタレをマグロのすき身にかけて、さらに良く混ぜて出来上がりです。


※分量は目安です。
材料はお好みの割合でやった方が失敗が少ないと思うので、タレ混ぜ合わせながらタレの味を確認しつつ、且つ少しずつマグロのすき身にタレを混ぜながら味調整することをお勧めします。

このタレですが、マグロの赤身の漬け丼にも応用できました。

よろしければお試しください。
ご飯と一緒に頂くと良いと思います。

  

2021年04月06日 Posted by きたゆき at 22:37Comments(2)食い物

三島億二郎日記をよんでみた その2



三島億二郎日記を読んでみた、の二回目です。

今回は
明治19年3月10日 (第二回北遊記の2)
からご紹介致します。

当時の日本の鉱山産業の実態と(前半部)、
当時の不景気の要因分析に対する所感(後半部)が書かれています。

無い頭で漢和辞典を片手に読んでみました。
およそ以下のような内容でした。

前半部
---------------------------------------------------

★石炭産地の主な場所(カッコ)は現在のおおよその地名

 〇九州
  -三池(熊本県大牟田周辺)
  -高島(長崎県高島町)
  -筑前(福岡県)
  -多久(佐賀県多久市)
  -唐津(佐賀県唐津市)
  -今福(長崎県松浦市付近)
 〇羽後
  -油戸(山形県鶴岡市)
 〇北海道
  -幌内
 〇中国
  -長門・船木(山口県宇部市)
 〇南海・四国
  -小豆島
 〇東国
  -磐城(福島県)
  -茨城(茨城県)

坑業の進捗や産出量の増加は年々見張るものがある。
明治16年の産出高は907539ton 2,623,570円
この内海外輸出は 389541ton 1,357,935円

★銅産地の主な場所
 〇下野足尾 (栃木県足尾)
 〇伊予別子 (愛媛県新居浜市)
 〇越後草倉 (新潟県阿賀町)
 〇羽後阿仁 (秋田県秋田市)

これらに次ぐもの
 〇越前面谷 (福井県大野市)
 〇飛騨神岡 (岐阜県飛騨市)
 〇大和・玄里(奈良県??町)
 〇陸中尾去沢(秋田県鹿角市)
 〇美作瀬戸 (岡山県美作)
 〇長門蔵目喜(山口県山口市)
 〇備中吉岡 (岡山県高梁市)
    帯江 (岡山県倉敷市)
 〇羽後荒川 (秋田県大仙市)
    卒田 (秋田県??町)
 〇加賀尾小屋(石川県小松市)
 
明治16年算出 1176999千斤(1斤≒600g) 736,076円

★銀産地の主な場所
 〇岩城半田 (福島県国見町)
 〇佐渡相川 (官坑)
 〇飛騨上岡 (岐阜県飛騨市)
 〇但島生野 (兵庫県朝来市)(官坑)
 〇羽後院内 (秋田県湯沢市)
 〇陸中軽井沢(福島県河沼郡柳津町)
 〇播磨大立 (兵庫県養父市)

明治16年算出 4383貫881目 928,119円

輸出760,046円 輸入2,352,511円 輸入超159万余
------------------------------------------------------
前半部以上

改めて日本って全国各地に鉱山資源があったんだなというのが新鮮な感覚です。
地名とか見てますと、〇〇財閥とか〇〇製作所とかにつながるものも見られます。

当時の鉱山資源の輸出内訳みたいなものがないのかさがしてみたところ、
経済産業省のHPにこんなものがあったのでご紹介します。

経済産業省
統計>本邦鉱業のすう勢調査>本邦鉱業アーカイブス
https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/honpouko/tokei.html

この三島億二郎日記が書かれたころより十年以上後のデータなのでそのものズバリではないですが、
なんとなく雰囲気が感じられればと思います。


引用データは以下の通りです。
「明治三十九年 本邦 鑛業ノ趨勢」
「-第四章 鑛産物の輸出入」の内、明治36年と記載のあるデータ






明治36年の輸出額の内訳を見てみると石炭と熱銅が主力の輸出品だったことが分かります。


次に、世界での石炭及び銅の産出量を示します。
「明治三十九年 本邦 鑛業ノ趨勢」
第三章より、明治36年と記載のあるデータ











このデータは「ミ子ラルインダストリーより摘載す」とありますので、当時の人が、
資料を抜粋して作成したものだと思います。

石炭については北米、イギリス、ドイツがぶっちぎりですが、日本が8番目に記載されています。
本資料にも「本邦ハ實ニ第八位ヲ占ム」と記載があります。

銅については北米がぶっちぎりですが、意外にも日本が上位にいます。
銅山と言えば栃木県の足尾銅山が有名ですが・・・


ちなみに下記のような資料もあり・・・

幕末、明治初期における石炭輸出の動向と上海石炭市場
杉山伸也著
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sehs/43/6/43_KJ00002434370/_pdf/-char/ja

当時は船が物流の主力で動かすための燃料は石炭でした。
という背景があり石炭は重要な資源でした。
さらに、輸出先の上海では日本の石炭のシェアはバカにならない割合だったようです。


ここから後半部になります。
---------------------------------------------------------------------------
不景気の原因

紙幣の減縮、政治費用の増加、このため農民の購買力が減少した。
金価の高騰、貨物供給増加のために輸出品の価格が減少した。
農業者、商業者、工業者の(経済力)が弱る理由である。


封建時代に米が貨幣のかわりの役割を成していた時の効用はどれほど大きかったであろうか。
我が国では雇人の報酬を米で支払い、借金の返済にも米を使い、その他効用が大きかった。
このような状態であったから、貨幣が少なくても用事は足りていた。
今から報酬を全部貨幣で支払うとなった場合、貨幣が大体2億ぐらいとなるのではないか?
私の見立てでは1億2~3千は不足していると思う。米による給料支払いと金による給料支払いで、
後者と取るならば、給料を受け取る人はこの後、財布が空になる心配をするようになる。
これを放置してそのままにしておくと極貧となる原因になる。
外国にこのような疲弊の例はあるのか?

封建時代の納税は決して軽いものではなかった。
しかし、不作やその他予期せぬトラブルの為に庶民の生活に不安が出れば、減税・免税の実施や、
手当を施すこともあった。翌年の収穫があるまで養うこともあった。
これが税が重くとも農民が耐えられた理由である。
今、これに反する減税が必要となる次第だ。
地券証となってから農民の浮沈はひどいものだ。
------------------------------------------------------------------------------
後半部以上

地券について
※国税庁
https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/network/152.htm
抜粋「、明治政府が明治6年以降行った税制改革であり、農業生産者に米などを物納させる年貢(旧地租)に替えて、土地の所有者に税金(新地租)を課すものであった。」

所謂「地租改正」というものの影響の話かと思います。
奈良時代とか律令政治がとか言われていた時代、もしかしたらもっと古い時代から、農業者はお米を税として納めていました。
それが、明治の世になって貨幣で納めるように変えられたというものです。

これによる庶民の混乱や疲弊について、三島億二郎は述べられているのだと思います。
私も三島億二郎と同様、当時の欧米の庶民がどんな暮らしをしていたのか気になりました。

私の三島億二郎日記の研究テーマの一つとして、
「明治維新 やったは良いが 庶民の暮らし よくなった?」
という疑問があります。

この辺りもデータや文献などから裏付けが取れたら面白いかなと思います。
引き続きコツコツ進めて参ります。
  

2021年04月02日 Posted by きたゆき at 18:52Comments(0)独り言長岡市データで分析 新潟県

北越戦争時の著名人の年齢を並べてみた


今日は軽い話題を一つ。
戊辰戦争の頃、幕府、長岡藩、薩摩藩、長州藩等の人々がどのような年齢であったか、
並べてみました。

ソースは全部ウィキペディアです。
(一応確認はしていますが間違っていたらすみません)

人選は私の独断の偏見です。
まずは、所属別に並べてみます。
以下、敬称略させていただきます。




所感
・長岡の殿様 若い!!
・長岡藩のお三方の醸し出すベテランオーラ(他の藩士の方ももちろんいらっしゃったんでしょうけれども)
・徳川慶喜と勝海舟の関係、いくつかのテレビドラマの役柄の雰囲気などはこの辺を意識しているのかな?



次に、年齢順に並べてみます。




所感
佐久間象山の門下生、吉田松陰くらいまでの面々を見ると、ベテランオーラを感じます。
佐久間象山が当時の人々に与えた影響と、影響を受けた人々の行動を顧みると感慨深いです。
長岡のお三方は勝海舟と近い世代だったんですね。

徳川慶喜や松平容保が若手の方に入って来るのも改めて見ると少し発見です。



続きまして、江戸城無血開城メンバーと北越戦争に携わった皆様に分かれてもらいます。




江戸城無血開城組の面々、安定感を感じます。
新政府軍は長岡藩になんでこんな若z(ゲフンゲフン)←これ、素朴に疑問です。あちら側に何か資料が残っていないものか・・・
もし、黒田清隆が小千谷に来ていたら・・・という歴史のIFもありますが、それでも黒田清隆28歳とは・・・。


聞くところによると、河合継之助の藩政手腕は並々ならぬもので、
牧野の殿様も継之助に大きな信頼を寄せていたということです。
交渉失敗→北越戦争→長岡被災→河井継之助戦死→殿様謹慎
殿様の心中は察するに余りあります。
牧野忠訓は明治8年に32歳で若くしてお亡くなりになっています。


人の能力は年齢が全てではないと言うべきか、経験の積み重ねは無視できないものがあるのか、
結果論にはなってしまいますが、今回の場合は後者かもしれません。

北越戦争やその後の長岡の復興において、牧野のお殿様の名前ってあまり出てこないで、
藩士の皆様の名前を目にすることがほとんどです。
戦争になってしまったのは残念でしたが、実力のある藩士の皆様が活躍できたその後ろに、
牧野のお殿様もいらっしゃったのかな・・・とも思いました。
  

2021年03月30日 Posted by きたゆき at 13:02Comments(0)独り言長岡市

新潟県の農業事情を調べてみた その4


※またまたすみません。第二回の記事で掲載すべきグラフの位置が間違っていました。
訂正致します。
(一回目の訂正の時にグラフの順番がずれたようです。お恥ずかしい)

きたゆきの新潟県放浪記 since 2008:新潟県の農業事情を調べてみた その2
http://yukiyakonkon0809.niiblo.jp/e491487.html


さて、本題です。

前回の記事では、お米の生産量や価格が色々あって上昇し、
農家さんの所得も増加したのではないか?というお話をしました。

きたゆきの新潟県放浪記 since 2008:新潟県の農業事情を調べてみた その3
http://yukiyakonkon0809.niiblo.jp/e491511.html


今回は昭和50年頃~平成5年頃までを見ていきたいと思います。

グラフは以下のデータを参考にしています。
★農林水産省
・新潟県の生産農業所得
・新潟県の米の収穫量
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00500206&tstat=000001015617&cycle=0&year=20180&month=0&tclass1=000001034290&tclass2=000001052259

★総務省
・全国の米類の消費者物価指数
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200573&tstat=000001084976&cycle=0&tclass1=000001085995&tclass2=000001085936&tclass3=000001085996&tclass4=000001085997&tclass5val=0




グラフはこのような感じです。





順番に見ていきます。




まず、オレンジ色の矢印で示した生産農業所得と収穫量の凹凸部分ですが、
これは両者連動しているように見られます。

ですので、矢印で示した部分の農業所得の凹凸は、
米の生産量の増減による影響が大きいと推定します。

今度はちょっと広い目で見てみます。




なんとなくですが、
・収穫量は減少傾向気味
・消費者物価指数は上昇傾向気味
・農業生産所得は上下はあるものの横ばい気味

のように見えます。
大雑把な見方をすれば、収穫量は減少しているが、お米の値段は上がっているので、
それらが相殺されて、農業所得が横ばいとなっている・・・
という風にも見られるのではないでしょうか。

さて、そうしましたら前回と同様、この期間になにが起きたのか、
箇条書きにて記載致します。

参考文献
日本の農業とJA 第9版 
その他はリンクを記載

昭和50年 農地法改正 
「農業経営の細分化を防止するために、相続税の納税猶予制度を創設」
貸し出し手からみてより貸しやすくするためのあらたな手法の導入
参考リンク
https://www.maff.go.jp/j/study/nouti_seisaku/01/pdf/data3-1.pdf


昭和55年 記録的な冷害
昭和56年 食管法 改正 (米の配給割り当ておよび購入権廃止)

第94回国会 衆議院本会議 第21号 昭和56年4月23日
https://kokkai.ndl.go.jp/simple/detail?minId=109405254X02119810423&spkNum=26#s26
・米は供給過剰状態が続いている
・農家の生活水準については、農家の一人当たり家計費は、
 勤労者世帯のそれを上回っておりますが、
 これは、主として兼業所得の増加によるもの
・稲作等では農地価格の上昇などから経営規模の拡大が停滞的に推移してきた
・五十五年には記録的な冷害により米を中心に大きい被害が発生
・農業共済金の早期支払い、農外所得の増加等により農家総所得はなお増加

※ちょこちょこ気になるキーワードが出てきていますね。
これは後で深堀してみたいと思います。

昭和62年 生産者米価引き下げ
※これについてはグラフ以前掲載したグラフを再掲します。
★農林水産省 米穀 政府買入価格(国の告示価格)
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00500310&tstat=000001034839&cycle=7&year=20080&month=0&tclass1=000001034840&tclass2=000001037382
★総務省   消費者物価指数(米)
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200573&tstat=000001084976&cycle=0&tclass1=000001085995&tclass2=000001085936&tclass3=000001085996&tclass4=000001085997&tclass5val=0




昭和62年頃に政府流通米告示価格が低下しておりますが、
恐らくこの部分のことを言っているのだと思われます。


★食糧庁(もうない庁です) 自主流通米は昭和45年からデータ確認ができます。
全国生産量と自主流通米等買入数量の推移
http://agrin.jp/hp/kome/library/16pdf/26.pdf




このグラフも再掲ですが、改めてみると昭和62年頃から政府米の買取量が大きく減少しています。
昭和62年以降は政府米よりも自主流通米の方が流通量も市場価格も支配的になって行ったとみて良いように思います。

色々ありすぎてややお腹と頭がいっぱいです。
後で総括のような記事が必要かもしれません。


次の記事
きたゆきの新潟県放浪記 since 2008:新潟県の農業事情を調べてみた その5
http://yukiyakonkon0809.niiblo.jp/e491646.html  

2021年03月23日 Posted by きたゆき at 19:44Comments(0)データで分析 新潟県

新潟県知事の出身地を明治時代から並べたら?

三島億二郎日記を調べている中で、ウィキペディアから興味深い(と個人的には思った)部分がありましたので、 記事にして紹介します。
歴代の新潟県知事がどこの出身だったか? というものです。
三島億二郎日記を読んでいると、ちょこちょこ新潟県知事に〇〇のお願いに行ったという記述が見られます。
ですので、新潟県知事のデータは三島億二郎日記の書かれた時期の背景を知る上で後々参考になるかもと思い、取っておくことにしました。
では、リストとグラフを示します。
恐れ入りますが県知事の皆様の敬称は略させていただきます。

注意
1.在任期間のカウントについては厳密には日数でカウントすべきです。
しかし、全部やるのは手間なのと、概要がなんとなく分かれば良いという判断から、 下記のようにカウントしている部分があります。


千頭 清臣 1900年1月19日~1900年9月8日=1年とみなす

ですので、本グラフは厳密ではありません。

2.肥前国と佐賀県 長門国と山口県は同郷としてカウントします。





参考データ
新潟県知事一覧 - Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7

明治~戦後までは県知事は官選制だったのでそもそも今のように一般庶民が選挙で知事を選ぶというようなことはありませんでした。 明治政府が任命していたようです。 明治初期は所謂、薩長土肥の皆様が来ていたのが一目瞭然でした。
(ここまであからさまとは…)
廃藩置県から戦後までの約半分の期間が薩長土肥です。

他の県もこのような感じだったのか、比較してみるのも面白いかもしれません。

戦後はほぼほぼ新潟出身の方々でした。  

2021年03月16日 Posted by きたゆき at 19:10Comments(2)独り言データで分析 新潟県

新潟県の農業事情を調べてみた その3



前回の記事に修正が入りました。すみませんでした。

きたゆきの新潟県放浪記 since 2008:新潟県の農業事情を調べてみた その2
http://yukiyakonkon0809.niiblo.jp/e491487.html

今回は前回に引き続き、 昭和46年付近の所得の急上昇の要因について考えていきたいと思います。

前回の分析から、この急上昇はお米の価格の上昇による要因が強そうだという雰囲気が、読み取れました。
では、なぜお米の価格が上昇したのか?
分析していきたいと思います。
当方の至った結論から申し上げますと、この時代はとにかくあらゆる物の物価が上昇した時期であり、お米の物価も例外ではなかった。
ということが推定されました。
この分析を行うために、消費者物価指数なるものを使用しました。
よく聞く言葉ですが、私なりの理解で大雑把に言うと、

「物」の「価値」をお金と異なる物差し(指数)で示したもの

です。

参考として先日紹介しました、
政府米の価格とお米の消費者物価指数を並べてみます。
★農林水産省 米穀 政府買入価格(国の告示価格)
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00500310&tstat=000001034839&cycle=7&year=20080&month=0&tclass1=000001034840&tclass2=000001037382
★総務省   消費者物価指数(米)
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200573&tstat=000001084976&cycle=0&tclass1=000001085995&tclass2=000001085936&tclass3=000001085996&tclass4=000001085997&tclass5val=0






上昇傾向として若干(1年?)タイミングのずれがあるものの、比較的似たような傾向が見られます。
消費者物価指数の項目を全て合わせたグラフ、 (衣食住と遊に必要な我々が日常購入しているもの全て) も記載してみます。






上昇幅は異なりますが、傾向としては一緒とみて良いと思います。
(先ほどの"お米"の消費者物価指数と右側の軸の幅を少し変更しています)

さて、物価の上昇や米作りに影響があるかな?となんとなく感じた内容で、この時期に起きたことを下記のように箇条書きします。

参考文献

★新潟県 新潟コシヒカリの軌跡 ~誕生から定着に至るまで~
https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/nosanengei/1341867635261.html
★日本農業とJA 9版 (全国農業協同組合中央会)
★米に関する資料
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/bunka/dai3/siryou1_1.pdf
★農地政策をめぐる事情 (平成19年1月 農林水産省)
http://www.maff.go.jp/j/study/nouti_seisaku/01/pdf/data3-1.pdf
★物価統制令 (ウィキペディア)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E4%BE%A1%E7%B5%B1%E5%88%B6%E4%BB%A4#:~:text=%E7%89%A9%E4%BE%A1%E7%B5%B1%E5%88%B6%E4%BB%A4%EF%BC%88%E3%81%B6%E3%81%A3%E3%81%8B%E3%81%A8%E3%81%86,%E9%83%A8%E3%82%92%E9%99%A4%E3%81%8D%E5%8D%B3%E6%97%A5%E6%96%BD%E8%A1%8C%E3%80%82
★食糧管理制度(ウィキペディア)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E7%B3%A7%E7%AE%A1%E7%90%86%E5%88%B6%E5%BA%A6#:~:text=%E9%A3%9F%E7%B3%A7%E7%AE%A1%E7%90%86%E5%88%B6%E5%BA%A6%EF%BC%88%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%8F%E3%82%8A%E3%82%87%E3%81%86,%E3%81%AB%E5%9F%BA%E3%81%A5%E3%81%8D%E5%89%B5%E8%A8%AD%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%82

昭和44年
・自主流通米制度開始   
-良質なお米は政府を介さず卸業者などが直接販売可能となる
-上記に関連しお米が高値で取引されるようになる
・機械田植えとコンバインが普及

昭和45年
・米の生産調整

昭和40年代前半の大豊作などでお米の過剰在庫が発生したため
・第二次農地法改正
※資料を読んだ当方理解
高度成長期→離農者が出る→離農者の農地を専業農家に集約したい(少ない人数で生産量を上げたい)→法律上それがやりにくかったので法律を改正した

昭和46年 米の買い入れ制限
・※当方推定 上記の過剰在庫に関連するものと思われる

昭和47年
・消費者米価の「物価統制令」適用除外
元々は戦時中に作られた「価格統制令」に端を発するもので、急激な物価上昇を防ぐために、政府が価格を統制していたもの。この年までお米は適用されていた。
・標準価格米制度実施
消費者米価が自由化
・田中角栄 日本列島改造論発表
地価の上昇

昭和48年
古米の在庫処分が済んだことで、米の需給は一旦均衡するものの、 世界食糧危機の煽りを受け、日本国民の食糧安全保障に対する意識 が高まり、再び生産者米価が引き上げられた。 古米在庫や食管会計赤字は増加。

ここまで一度にドカッとこられると、 各々どの項目がどの程度影響したのかは手持ちのデータからは分析しきれません。 ・・・という激動の時代だったのだなということは分かりました。 ちょっと現在に影響が出始めてそうだな・・・という内容もちらほら見られます。 多分、今後再び出てくるのではないでしょうか?

今日はここまでにします。


次の記事
きたゆきの新潟県放浪記 since 2008:新潟県の農業事情を調べてみた その4
http://yukiyakonkon0809.niiblo.jp/e491553.html  

2021年03月11日 Posted by きたゆき at 20:31Comments(0)データで分析 新潟県

新潟県の農業事情を調べてみた その2

よろしければ前回の記事もご覧ください。
きたゆきの新潟県放浪記 since 2008:新潟県の農業事情を調べてみた
http://yukiyakonkon0809.niiblo.jp/e491443.html

前回に引き続きまして、新潟県の農業事情を調べてみました。
前回分かったこととしては、
・新潟県の農業の主力はお米であり、お米の産出額と生産農業所得には相関がある
・平成6年以降の生産農業所得が急激に減少し、当時と比較すると現在は半減している
・米の生産額・生産農業所得はお米の収穫量と価格の複合的な結果である
といった内容でした。

平成6年以降の生産農業所得減少時に何が起きたのか? を調べると前回の記事で申し上げました。
が、今回はその前に昭和46年頃の急激な生産農業所得UPの部分に 焦点を当てたいと思います。
(上記の減少を調べたところ、ガット・ウルグアイラウンドなるものにぶつかりました。ちょっとこれを理解するのに手間取っています)





農林水産省のHPを探していたところ、 昭和中期~のお米の収量(予測値)と政府の買取告示価格のデータを見つけましたので、
それを元に分析していきたいと思います。
まず、お米の収量については、下記のデータを参考にすることにします。
★作物統計・収穫量累年統計・水稲・新潟 (平年収量)
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00500215&tstat=000001013427&cycle=0&tclass1=000001032288&tclass2=000001034728

★平年収量とは?
https://www.maff.go.jp/j/press/tokei/seiryu/200317.html
水稲平年収量 水稲の栽培を開始する以前に、その年の気象の推移、低温・日照不足等の気象被害の発生状況等を平年並みとみなし、実収量のすう勢を基に作成されたその年に予想される10a当たり収量をいい、作柄の良否を表す作況指数の基準となっています。
注意
1.下記グラフの平年収量は10a当たりではなくリンク先データ中の新潟県全体の収量データを使用しています。
2.記載にある通り、平年収量とは"予想"なので、実際の収量とは数字がずれます。  (予想より少なければ不作)

少し本題から逸れますが、これと前回の
★平成の米 新潟県:北陸農政局
https://www.maff.go.jp/hokuriku/stat/data/heiseinokome.html
に記載があった新潟県の収量データを重ねてグラフ化してみます。





両者ほぼほぼ同様の傾向が見られます。
実際の収量が平年収量より高かったり低かったりしますが、 豊作、不作等で予想通りとならなかったためとみられます。
(・・というか、お天道様の采配はあるにしてもある程度はコントロールできるんですね。)
さて、平年収量でおおよその各年のお米の収量の増減の傾向はつかめることが分かりました。
本題に戻ります。
この平年収量と新潟県の生産農業所得のグラフを重ねてみます。
前回と同様
★生産農業所得統計 都道府県別生産農業所得統計累年統計(の内新潟県)
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00500206&tstat=000001015617&cycle=0&year=20180&month=0&tclass1=000001034290&tclass2=000001052259
のデータを使用します。





昭和46年頃の平年収量を見ると、特段そこから収量が増える様子は見られません。

※2021年3月11日
すみません。訂正します。上記の昭和46年頃の部分を拡大したグラフを示します。また、上記の「★作物統計・収穫量累年統計・水稲・新潟」で参考にしたエクセルデータ内に収穫量も記載があったので(見落としてました)それもグラフに載せます。




昭和46年を基準にお米の収量を見ると
・昭和46から収量が増加、但し昭和43年には及ばず

昭和46年を基準に生産農業所得を見ると
・昭和46から所得が増加、昭和43年を上回る

ということがわかります。修正として、昭和46年以降、お米の収量は上昇したため所得の上昇に収量の影響はあると思われる。が、昭和43年の数値と見比べると、所得が急増したのは収量が増えたからだけではない。
ということになると思います。
~訂正以上~


次にお米の価格をグラフにしてみます。
こちらのデータも昭和中期~のデータで参考になりそうなものがあったので、 そのデータを使用します。
★米穀 政府買入価格(国の告示価格)
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00500310&tstat=000001034839&cycle=7&year=20080&month=0&tclass1=000001034840&tclass2=000001037382

先ほどと同様、生産農業所得のグラフと重ねてみます。






グラフから分かるように昭和46年頃から政府流通米の国の告示価格が上昇している様子が見られます。
このことから、昭和46年頃の生産農業所得の上昇は米の価格の上昇によるものも一因であると推定されます。
以上まとめると、昭和46年頃の生産農業所得の上昇はお米の価格の上昇による影響が強め、ということになるかと思います。

補足
政府米と自主流通米について

大雑把には
・政府米=政府が買い取るお米(備蓄などに回される)
・自主流通米=政府が買い取らず市場に流通するお米
になります。

昭和44年に自主流通米制度ができてから、お米の価格は厳密には政府の買取価格と自主流通米の価格は異なるものになると思われます。
自主流通米の価格データで参考にできそうなものが見つからなかったので、
本ブログ記事では政府米の価格を参考にしました。

ご参考として、自主流通米と政府米の流通量による影響を確認するため、
その年に収穫されたお米がどの程度、政府米や自主流通米になったのか、
下記データをグラフにしました。
※線が途切れているデータはその間のデータが無かったためです。

★食糧庁(もうない庁です) 自主流通米は昭和45年からデータ確認ができます。
全国生産量と自主流通米等買入数量の推移
http://agrin.jp/hp/kome/library/16pdf/26.pdf






農家さんの所得が急上昇している昭和46年付近ですが 自主流通米の増加は見られるものの政府米の方がまだ量が多く、政府米の量の顕著な減少も見られません。 このことから、自主流通米の価格は不明ですが、少なくとも政府米の価格上昇が農業所得の上昇の一因であったとは言えると思います。


次の記事
きたゆきの新潟県放浪記 since 2008:新潟県の農業事情を調べてみた その3
http://yukiyakonkon0809.niiblo.jp/e491511.html  

2021年03月06日 Posted by きたゆき at 21:17Comments(0)データで分析 新潟県

新潟県の農業事情を調べてみた

データで分析新潟県の2回目の記事です。
新潟県の農業事情について調べてみました。
動機としては、以前知り合いのお爺様から、「昔は米の出荷が終わったら、お金を持ってみんなで町に繰り出してどんちゃん騒ぎをして・・・」 という景気の良い話を聞いたことがあり、今とは大分様相が違うなと感じたこと。
様相の違いは多分農家さんの所得が原因と考え、新潟県の農業に携わる人々の収入がどのように推移していったかを可視化(グラフ化)してみたいなと思ったところになります。

※本調査で当方が得た結論を知り合いの農業関係者に話した所、「あーそうそう。知ってる知ってる」というような反応でした。
ですので、農業関係者であれば常識的な内容なのかなと思いました。
私は農業は食べる専門なので、詳細については今回初めて知るところとなりました。
※似たようなデータは新潟県や国の省庁のホームページのどこかにあるかもしれません。
ソースは下記の農林水産省のデータを参照しています。
生産農業所得統計 都道府県別生産農業所得統計累年統計(の内新潟県)
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00500206&tstat=000001015617&cycle=0&year=20180&month=0&tclass1=000001034290&tclass2=000001052259
このデータをグラフ化しました。
まず、グラフ一つ目です。
新潟県の農業算出額(昭和35年:1960~平成30年:2018)を生産物品別に示します。



はい。新潟県の主力農産物は説明するまでもなく「米」であることが分かります。
基本的にすべての年で、他の農産物と比較しても「米」が圧倒的な産出額を保っています。
ですので、大まかに新潟県の農業生産品による産出額を見るには、「米」に注視していけば当たらずとも遠からずな結果になると本記事では判断致します。


以上の判断の元、農家さんの所得(米に限らず全て)についてどのようになるか、 米の産出額と相対比較してみました。
※繰り返しになりますが、新潟の農業の主力は米なので、このような比較でもある程度の傾向はつかめるはず・・・



※生産農業所得統計の概要:農林水産省
https://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/nougyou_sansyutu/gaiyou/ 

※農業算出額は、米の場合は最終的に生産された米の総産出額のこと
※生産農業所得 は、農業算出額から経費等を差し引き経常補助金等を加算したもの

両者を比較すると、基本的には連動した動きをしていることが分かります。
新潟県は良くも悪くも、主力製品である米の生産額による所得への影響が大きい事がここからも推定できます。
気になるポイントとしては、
・昭和50年頃から生産農業所得と米の農業産出額が離れる傾向が見られる
・両者とも平成6年頃をピークに減少傾向が見られる
・所得額でみると平成6年(1994年)のピーク2,016[億円]に対して平成30年(2018年)951[億円]で半分となっている

になります。
農家さん一件の所得額の相場はちょっと分かりかねますが、 自分の身で考えてみても、所得が半減するというのはかなりショックが大きいと感じます。

続きまして、なぜ所得額が半減したか?を分析します。
単純な考えで、所得を増やすには・・・
①沢山作って売る
②高く売る
この二つに関連する部分を見てみれば分かるかなと考えました。
つまり、新潟県の米の収穫量と価格の推移をみれば推定できるはずです。
ここで、 収穫量と価格の推移については、

平成の米 新潟県:北陸農政局
https://www.maff.go.jp/hokuriku/stat/data/heiseikome/niigata.html

を参考にしています。
まず、収穫量と生産農業所得を比較してみました。
※データで昭和中期頃のものが無かったので、途中からのグラフになります。



一つ前のグラフで平成6年(1994年)と平成30年(2018年)で比較をしましたが、同様に収穫量を見ると、

水稲の収穫量 
・平成6年(1994年) 783,900[ton]
・平成30年(2018年) 627,600[ton]
となり、ピークの頃からはやや減少傾向が見られます。
(627,600/783,900→約80%に減)
但し平成8年頃からはほぼ横ばいです。

続いて、米の価格と生産農業所得を比較してみました。 米の価格は”新潟 コシヒカリ一般”で見ています。



※指標価格・米の相対取引価格についての詳細説明は、 上記のリンク先の資料64P 66Pに記載があります。
大雑把にはどちらもお米の値段です。

一つ前のグラフで平成6年(1994年)と平成30年(2018年)で比較をしましたが、同様に価格を見ると、
・平成6年(1994年) 24,534[円/60㎏]
・平成30年(2018年) 17,042[円/玄米60㎏]
となり、ピークの頃からは減少しています。
(17,042/24,534→約70%に減)
収穫量と異なり、米の価格は平成8年を過ぎても全体としては減少傾向が見られます。
平成26年から数年は若干の価格上昇が見られます。
以上から、生産者所得が最も高かった平成6年を基準に見ると、
・平成6年~平成8年までは収穫量価格が共に減少。
・平成8年以降収穫量は凹凸があるもののほぼ横ばい
・平成8年以降価格は凹凸があるものの平成26年までは減少

となります。
平成6年以降の収穫量と価格の減少で生産農業所得は大きく減少していると推定されます。
また、平成8年以降は米の価格の減少が支配的要因となり、生産者所得が減少しているのではないかと推定されます。
次の段階としては、この両者が減少するにあたって当時いったい何が起きたのか? を調べる必要があります。
・・・が、現時点ではここまでしかまとめられていません。
調査が終わりましたらまたグラフにしてアップしたいと思います。
ちなみに私の食事事情ですが、基本1日三食は米を食べています。
仕事場には弁当持参です。 ラーメンは健康のため週に1回に制限しています。(制限をしないと際限なく食べてしまうので) といような感じで微力ではありますが、米の消費に貢献しているはず・・・です。  

2021年02月25日 Posted by きたゆき at 21:42Comments(0)データで分析 新潟県

三島億二郎日記を読んでみた 1

長岡市が出している三島億二郎日記を読んでみました。
三島億二郎は河井継之助、小林虎三郎と同じく幕末に佐久間象山から学び、幕末~明治~の長岡・新潟を支えた偉大な方です。
先日UPした河井継之助の建白書に続き、幕末・明治期の日本・新潟がどのような様子で、どのような考えを持った方がいたのか?
真相が知りたくて本を購入しました。
少しずつ読み込みながら、気になった部分を記載していこうと思います。
この日記の巻末の解説にもございましたが、当日記には三島億二郎の日々の備忘録、所感、漢詩、メモなどが記載されています。
現代でいうところの手帳のようなものかな?という印象を受けました。


今回は日記の中の明治10年2月2日に記載された「中庸論」の部分を読み解いてみました。
中庸という(書?)のは孔子の孫の子思(紀元前483?~402?)の作といわれています。(下記文献より)
私は専門家ではないので、失礼を承知で大雑把に「中庸」の内容を説明すると、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」を丁寧に説明した内容になります。
中庸=心技体のバランス感覚 といったところでしょうか?
昔、人の上に立つ人はこのような本で物事の考え方を学んでいました。

三島億二郎が中庸論を日記に記載した理由が、何か講義のようなものを受けて(当時か以前受けたものかは不明)書いたのか?
いきさつまでは読み解くことができませんでした。ただ、その当時の世の流れに対して思うところがあったから記載したのだと思います。


無い頭で漢和辞典を片手に読みました。
内容としてはおおよそ次のような理解でおります。
一部、漢字がどうしても分からなかった部分などもあり、現代語訳できなかったところもあります。

以下---------------------------------------------
世の人の中庸を失うことのなんと酷いことか。今の天下で往々にして、偏らず、党派的に(多数に流され)なりすぎず、個人的になりすぎず、やりすぎず、及ばないこともなく、良く中庸を全うする者が〇〇(漢字が分からず)となり、今我々の社会のあり様を見てごらんなさい。
着実温厚で徳のある行いに努める者は愚直に沈み、
進退活発で知識にあくせくとしてゆとりの無い者は軽はずみに物事に関わり、
俗事に奔走するものは〇〇(漢字が分からず)として退けられ、
丁重尊大で世の中を気に食わないと思っている人は、心が狭く頑愚と見られて拒絶される。

皇学者(古事記・日本書紀を探求して日本本来の精神を明らかにする人)は皇統を崇め従って自分の権利を捨ててしまい、
漢学者は過ぎ去った過去を大事にするばかりで現在を見下げ、
洋学者は西洋に心酔するばかりで日本を愛する事をどのようにするか考えず、
若い者は進むこばかり考えて、退くということを知らず、
年を重ねたベテラン儒学者は退くことは知っているが、進むということを知らず、
学者は宗教者の間違い事を指摘するが、宗教者によって成された結果的に正道に叶う事柄には理解を示さず、
宗教の徒は学者の不敬に対して抗議はするが、いまだ驕り高ぶってすべきことを怠り、世間から歌や芸をする人だという印象を払拭できていない。

飾り気がなく律儀でも言動が下品で卑しい人は、いくら徳を守り義があって誠実で人情が厚くても野蛮人と見るべし。

旧態を守ろうとする人は頑固で新しい事を受け入れず古い事に固執し、
急進論者は過激になり、
段階を追って少しずつ進む人はいつまでも煮え切らずとどまってしまう。

子供を溺愛しすぎるあまり善良な人間に導くこと(教育すること)を怠る両親あれば、
孝行(子供が親に尽くすこと)を固守して(親が固守させて)精神の発達を忘れる子供もいる。

正直で律儀であることも、度が過ぎて馬鹿といわれる人もいれば、
感覚が鋭すぎて狡猾と言われてしまう人もいる。
寛大すぎてお金のやりくりを考えない人もいれば、
倹約が過ぎてケチだとあざけられる人もいる。

意思がしっかりしていて思い切って事を行っても失敗の多い者もいれば、
古いしきたりに何が何でも従うだけで、チャンスを失う者もいる。

精神ばかりを磨く者は体が貧弱な様子となり、
体ばかり鍛える者は精神がおろそかになって鈍くなる。

分別なく疑ってばかりの人は世の信用を失い、
分別なく信ずる者は予期しないところで失望されてしまう

過度に失望する人は再起の気力を失い
希望が過度な人は予期しないところで食い違いを招く。(楽観的すぎて一貫性が無くいい加減ということか?)

分別なく喜ぶ人はあるときは分別なく悲しみ、
分別なく人を悪く言う人はある時は分別なく人を誉め、
分別なく人を愛する者はある時は分別なく人を憎む。

理論家は実際に現場で手を下す人が軽率であることを馬鹿にし、
実際に手を下す人は理論家の回りくどさを笑う。

下戸は上戸の酒を飲むことを笑い、
上戸は下戸が牡丹餅を食べることを笑う。

中庸もバランスを失えば、
用心は臆病となり、
不屈の精神は頑愚となり、
尊敬はかえって人をあざけって馬鹿にすることになり、
自由はわがままとなる。

仁義礼智信(儒教で大事な五つの徳)も間違ってしまえば、
婦人の仁、※1
侠客(ヤ〇ザ)に義があり、
太鼓持ちに礼があり、
盗賊にわきまえがあり、
〇(記載なし)に信がある。
ということになる。

偏らず、傍観せず、党せず、私せず、過ぎたるは及ばざるなく分別をもって中庸で言われていることを得るのは、
実際にはなかなか難しいことであります。

以上--------------------------------------------------

今も昔も悩む部分はそれほど変わっていないような気もしました。

※1
婦人の仁
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14146369379

文字面だけ見ると、なんで女性の仁が良くないのか?と思われることと思います。
この言葉は司馬遷の「史記」で韓信が劉邦に語った項羽の評価だそうです。
意味としては、泣いている人を見て可哀そうになって思わず助けてしまった後、
その人が元気になって活躍し始めると冷たく接してしまうような様子。
その人の活躍が心から喜べない。(泣いている人を見てただ手を差し伸べるだけで終わってしまうことは薄情で真心がない)
というような意味だそうです。

この言葉は史記の文脈まで理解していないと、現代の私たちでは正確に意味が捉えられない言葉だと思います。
こういった言葉を当たり前に使いこなせた三島億二郎や当時の周囲の人々は教養があったのだなと思いました。

参考文献
三島億二郎日記 長岡市
岩波文庫 金谷治 訳注 大学・中庸  

2021年02月11日 Posted by きたゆき at 22:24Comments(0)長岡市

ビルマと新潟の意外なつながり

今、ミャンマーが大変な事になっております。その辺のニュースの関係でインターネットをふらふらさまよっていたら、このような場所を見つけました。
薬照寺(現在休館中)/南魚沼市ウェブサイト
http://www.city.minamiuonuma.niigata.jp/kanko/history_culture/history/1455872879476.html

戦時中、ビルマの国のトップのバー・モウという方が日本に亡命し、新潟県の現南魚沼市にあるお寺に身を隠していたことがあったそうです。

以下、ウィキペディアの参考情報です。
歴史の流れは今に通じます。現状を知り未来を予測するには必要な事なのですが、ミャンマーの歴史はかなりややこしいようです。
春には会館するのでしょうか?
是非伺って見たいと思いました。


参考
ビルマ国 - Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%E5%9B%BD

1941年(昭和16年)12月26日
アウンサン率いるビルマ独立義勇軍が、日本軍と共にイギリス統治下のビルマへと進軍

1943年4月
イギリス軍を駆逐して刑務所に収監されていたバー・モウが解放
彼を行政府の長官に就任

1943年(昭和18年)8月1日
日本政府・軍の後押しによる独立準備委員会は建国議会の成立と独立を宣言、
「ビルマ国」が誕生

1944年
インパール作戦で日本が大敗

1945年3月27日
アウンサン(アウンサンスーチー氏の父)は日本及びビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返る。

1945年
日本軍、ラングーン(現ヤンゴン)から撤退。
ビルマ国政府は日本に亡命。
元首のバー・モウも8月に日本へ亡命した

1945年9月
ビルマは再びイギリスの植民地となる  

2021年02月07日 Posted by きたゆき at 16:29Comments(0)中越

河井継之助の建白書を読んでみた

今回はコロナ調査はお休みします。

先週の休みは雪退けに追われ、武漢コロナで遊びにも出られず…という事で、長岡市が出している、「山本有三著、米百俵 小林虎三郎の思想」に書かれた、河井継之助が朝廷に上表した「建白書」を読んでいました。
動機については末尾に書きます。

私の無い頭でおおよその現代語訳を書いてみます。

「(前略)保元の乱(保元元年:1156年)以来、政権が朝廷から武士に移りました。
その後、様々な人が天下を治めようとしたが上手くいきませんでした。
徳川氏の天下となって数百年続いた戦乱の世が終わりました。
徳川氏の治める世は、大変な苦労をしていた万民を救済し、古今の事情を見通して大きな事件や事故もございませんでした。
朝廷からも万事お任せいただいておりました。
もし、徳川氏が途中で政権を朝廷にお返しになっていたら今日までの平和な世は無かったでしょう。
これは神国の御威光と徳川氏先祖代々の君主のお働きがあったからと存じます。
(中略)、今日至りましては、初めは外国人を打ち払え(攘夷)と言っていた者も逆に外国と手を組むようになりました。
初めから攘夷など不可能だと分かっていたはずです。(蒸気で動いて大砲で攻撃できるような黒船等をみれば国力の違いぐらい分かるでしょ?←私が勝手に書いた心の声)
朝廷の皆様にあらせられましても、以前は攘夷と言っていながら今では彼らと同じように方向が変わってしまい、一貫性が見られません。
恐れながらご反省すべきと存じます。
朝議から出たものでも宜しくないもので、(これのせいで)朝廷を敬う(尊皇の)人々が、尊皇の名に任せて無茶な攘夷に走ったものとも推察致します。
(中略)皇国の第一人者である徳川氏の疲弊は、単に徳川氏の疲弊ではなく、皇国の疲弊であります。
不相応な身分の者が失礼とは存じ上げますが、お願い申し上げます。
しばらくの間は、人々の「尊皇」にお喜びなさることなく、再び万人が戦国時代のような苦労に見舞われる恐れに憂慮頂きたく存じます。
これまで通り、万事徳川氏へ政治を委任なされる以外に治安を安定させる道はないと存じます。(後略)
藩主牧野の代理、河井継之助」

※この建白書は徳川慶喜公の大政奉還の直後に朝廷に渡されたものです
※徳川氏の疲弊と言っています。薩摩藩とイギリスの戦争の後処理で薩摩藩がイギリスに支払うべき費用を事実上代わりしたり。
長洲征討やらなんやらでお金を使ったり。といったような部分のことでしょうか?

河井継之助が、徳川氏が疲弊したと言っても、当時、徳川氏にはまだまだ力はありました。
継之助もその辺りを分かった上で徳川氏に任せるように言っているのだと思います。
内戦が始まってしまえば民が苦しむのは当然です。
さらに内戦で国力が疲弊すれば、諸外国に植民地にされてしまう恐れがありました。と、言うところまでは継之助は理解していただろうと推察します。

また、朝廷を批判し、考えを訴えるわけですから決死の覚悟だったと思います。

諸説ありますが、仮に江戸幕府がなくなったとして、誰が日本の政治をするか?海外の知見がある人材が日本にどれぐらいいるか?
と、考えた時、徳川幕府の人材というのは無視できなかった筈です。
(それまでは日本を統治していましたし、外国にも人を派遣したり、交渉したりと経験のある人は少なからずいたと思います。)

と、いうところも継之助は分かっていたのではないでしょうか?
薩長だけでは日本を治めるには荷が重すぎると。

おかしいと思った所を理路整然と言えるところに、少し直江兼続と直江状に似ているな、とも思いました。

直江状は有名ですが、この建白書も同様にもっと評価されても良いのではないか?と個人的には思います。

冒頭に書いた本記事の動機について。
戊辰戦争の結果、新政府軍が勝利し明治維新となりました。
勝てば官軍負ければ賊軍の言葉がありますが、以降の歴史では新政府軍に都合の悪いことは極端な話、黙殺されたのではないかと考えています。
もしかすると明治維新は我々が今日知る内容とは少し異なる部分があるのではないか?
河井継之助の建白書等に事の真相のヒントがないか?
気になったというのが動機です。
武漢コロナが落ち着いたら取材の旅等に出てみたいと思います。  

2021年01月15日 Posted by きたゆき at 00:57Comments(0)長岡市

本年はお世話になりました

ここ数年は私生活が忙しく、ブログの更新もままならないような状態でした。
気がつけばブログを始めてから10年以上が過ぎていました。
このブログを始めたきっかけを思い返しますと、「新潟って観光資源のようなものが何もないよね」という問いに対する「そんなことないだろう」という私の答え探しだったように思います。
今年は大変な年でしたが、その中で得るものもあり、一部最近のブログにも反映できました。
新潟のインバウンドについての記事です。
時間はかかっていますが、自分なりに少しずつ答えのようなものが見えてきたように思います。

今年は多分、歴史の歯車が勢い良く回りだした大事な年になると思います。年明け早々ぐらいにアメリカで大きな動きがあるのではないでしょうか?
また、日本も少なからず巻き込まれると思います。杞憂に終われば良いのですが…

最近は突然コロナの記事をアップし驚かせてしまい申し訳ありません。
ただ、後々大事な事になりそうな気がするのでご了承頂けましたら幸いです。

歴史の歯車が回り始めました。願わくば良い方向になるよう祈りつつ過ごして参りたいと思います。
  

2020年12月31日 Posted by きたゆき at 19:14Comments(0)