三島億二郎日記をよんでみた その2
三島億二郎日記を読んでみた、の二回目です。
今回は
明治19年3月10日 (第二回北遊記の2)
からご紹介致します。
当時の日本の鉱山産業の実態と(前半部)、
当時の不景気の要因分析に対する所感(後半部)が書かれています。
無い頭で漢和辞典を片手に読んでみました。
およそ以下のような内容でした。
前半部
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★石炭産地の主な場所(カッコ)は現在のおおよその地名
〇九州
-三池(熊本県大牟田周辺)
-高島(長崎県高島町)
-筑前(福岡県)
-多久(佐賀県多久市)
-唐津(佐賀県唐津市)
-今福(長崎県松浦市付近)
〇羽後
-油戸(山形県鶴岡市)
〇北海道
-幌内
〇中国
-長門・船木(山口県宇部市)
〇南海・四国
-小豆島
〇東国
-磐城(福島県)
-茨城(茨城県)
坑業の進捗や産出量の増加は年々見張るものがある。
明治16年の産出高は907539ton 2,623,570円
この内海外輸出は 389541ton 1,357,935円
★銅産地の主な場所
〇下野足尾 (栃木県足尾)
〇伊予別子 (愛媛県新居浜市)
〇越後草倉 (新潟県阿賀町)
〇羽後阿仁 (秋田県秋田市)
これらに次ぐもの
〇越前面谷 (福井県大野市)
〇飛騨神岡 (岐阜県飛騨市)
〇大和・玄里(奈良県??町)
〇陸中尾去沢(秋田県鹿角市)
〇美作瀬戸 (岡山県美作)
〇長門蔵目喜(山口県山口市)
〇備中吉岡 (岡山県高梁市)
帯江 (岡山県倉敷市)
〇羽後荒川 (秋田県大仙市)
卒田 (秋田県??町)
〇加賀尾小屋(石川県小松市)
明治16年算出 1176999千斤(1斤≒600g) 736,076円
★銀産地の主な場所
〇岩城半田 (福島県国見町)
〇佐渡相川 (官坑)
〇飛騨上岡 (岐阜県飛騨市)
〇但島生野 (兵庫県朝来市)(官坑)
〇羽後院内 (秋田県湯沢市)
〇陸中軽井沢(福島県河沼郡柳津町)
〇播磨大立 (兵庫県養父市)
明治16年算出 4383貫881目 928,119円
輸出760,046円 輸入2,352,511円 輸入超159万余
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前半部以上
改めて日本って全国各地に鉱山資源があったんだなというのが新鮮な感覚です。
地名とか見てますと、〇〇財閥とか〇〇製作所とかにつながるものも見られます。
当時の鉱山資源の輸出内訳みたいなものがないのかさがしてみたところ、
経済産業省のHPにこんなものがあったのでご紹介します。
経済産業省
統計>本邦鉱業のすう勢調査>本邦鉱業アーカイブス
https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/honpouko/tokei.html
この三島億二郎日記が書かれたころより十年以上後のデータなのでそのものズバリではないですが、
なんとなく雰囲気が感じられればと思います。
引用データは以下の通りです。
「明治三十九年 本邦 鑛業ノ趨勢」
「-第四章 鑛産物の輸出入」の内、明治36年と記載のあるデータ
明治36年の輸出額の内訳を見てみると石炭と熱銅が主力の輸出品だったことが分かります。
次に、世界での石炭及び銅の産出量を示します。
「明治三十九年 本邦 鑛業ノ趨勢」
第三章より、明治36年と記載のあるデータ
このデータは「ミ子ラルインダストリーより摘載す」とありますので、当時の人が、
資料を抜粋して作成したものだと思います。
石炭については北米、イギリス、ドイツがぶっちぎりですが、日本が8番目に記載されています。
本資料にも「本邦ハ實ニ第八位ヲ占ム」と記載があります。
銅については北米がぶっちぎりですが、意外にも日本が上位にいます。
銅山と言えば栃木県の足尾銅山が有名ですが・・・
ちなみに下記のような資料もあり・・・
幕末、明治初期における石炭輸出の動向と上海石炭市場
杉山伸也著
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sehs/43/6/43_KJ00002434370/_pdf/-char/ja
当時は船が物流の主力で動かすための燃料は石炭でした。
という背景があり石炭は重要な資源でした。
さらに、輸出先の上海では日本の石炭のシェアはバカにならない割合だったようです。
ここから後半部になります。
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不景気の原因
紙幣の減縮、政治費用の増加、このため農民の購買力が減少した。
金価の高騰、貨物供給増加のために輸出品の価格が減少した。
農業者、商業者、工業者の(経済力)が弱る理由である。
封建時代に米が貨幣のかわりの役割を成していた時の効用はどれほど大きかったであろうか。
我が国では雇人の報酬を米で支払い、借金の返済にも米を使い、その他効用が大きかった。
このような状態であったから、貨幣が少なくても用事は足りていた。
今から報酬を全部貨幣で支払うとなった場合、貨幣が大体2億ぐらいとなるのではないか?
私の見立てでは1億2~3千は不足していると思う。米による給料支払いと金による給料支払いで、
後者と取るならば、給料を受け取る人はこの後、財布が空になる心配をするようになる。
これを放置してそのままにしておくと極貧となる原因になる。
外国にこのような疲弊の例はあるのか?
封建時代の納税は決して軽いものではなかった。
しかし、不作やその他予期せぬトラブルの為に庶民の生活に不安が出れば、減税・免税の実施や、
手当を施すこともあった。翌年の収穫があるまで養うこともあった。
これが税が重くとも農民が耐えられた理由である。
今、これに反する減税が必要となる次第だ。
地券証となってから農民の浮沈はひどいものだ。
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後半部以上
地券について
※国税庁
https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/network/152.htm
抜粋「、明治政府が明治6年以降行った税制改革であり、農業生産者に米などを物納させる年貢(旧地租)に替えて、土地の所有者に税金(新地租)を課すものであった。」
所謂「地租改正」というものの影響の話かと思います。
奈良時代とか律令政治がとか言われていた時代、もしかしたらもっと古い時代から、農業者はお米を税として納めていました。
それが、明治の世になって貨幣で納めるように変えられたというものです。
これによる庶民の混乱や疲弊について、三島億二郎は述べられているのだと思います。
私も三島億二郎と同様、当時の欧米の庶民がどんな暮らしをしていたのか気になりました。
私の三島億二郎日記の研究テーマの一つとして、
「明治維新 やったは良いが 庶民の暮らし よくなった?」
という疑問があります。
この辺りもデータや文献などから裏付けが取れたら面白いかなと思います。
引き続きコツコツ進めて参ります。
2021年04月02日 Posted byきたゆき at 18:52 │Comments(0) │長岡市│独り言│データで分析 新潟県
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