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小林虎三郎の興学私議を読んでみた 1 ~はじめに~



「米百俵」のエピソードで有名な小林虎三郎ですが、虎三郎が書いた「興学私議」という論文があり、少しずつ読み進めています。これは「諸外国に負けないためにはどうするか?」「教育及び教育の仕組みはどうあるべきか?」という課題に対する小林虎三郎の考えを論じたものになります。

資料としては、
「山本有三 著 米百俵 小林虎三郎の思想」に漢文の原文と書き下し文が記載されており、これを漢和辞典片手に読み解いております。

長岡市立中央図書館のホームページにも原文と書き下し文が読める場所があります。
以下リンクです。

ながおかネット・ミュージアム
https://opac.lib.city.nagaoka.niigata.jp/museum/kyushidouikou/yomikudashi/bun02.html

※難解な熟語の解説がリンク切れ?になっているのが少しもったいないような気もします。



本件を調べようと思った動機は、
「教育が大事なのは分かるけど、どんな教育をしてどんな人材を育てれば良いの?もっと具体的に知りたい」
という興味。

そして、「明治維新、やったは良いが、庶民の暮らしは良くなった?」という疑問へのヒントになるのでは?という思い。

この2つが大きいです。


この「興学私議」は中々の長文で、どのようにブログ記事に記載しようかと考えました。
結果、
1回目.私の動機と「興学私議」が書かれたの時代背景をご説明させていただく
2回目.興学私議の本文の私なりの現代語訳(前後半等に分けるかもしれません)
3回目.考察
といったような形で整理しようかと考えております。
よろしくお願い致します。


それでは本題に入ります。
動機につきましては、既に申し上げましたので「興学私議」が書かれた時代背景を、
「山本有三 著 米百俵 小林虎三郎の思想」の ~隠れたる先覚者 小林虎三郎~
を参考に記載致します。

小林虎三郎は23歳で江戸に行き、その翌年に佐久間象山の門下で勉強を始めたとのことです。
ちょうどその頃ですが、
嘉永6年(1853年)に黒船来航
嘉永7年(1854年)吉田松陰が渡航失敗して投獄
というような出来事が起きていました。

小林虎三郎は、師匠の佐久間象山の意向もあり、当時老中だった長岡藩の牧野の殿様や大老の側近に横浜の開港を説いて回りました。
これが当時の安部大老の怒りに触れ、大老から牧野の殿様には「書生の分際でけしからん!」と言うような言葉があったようです。牧野の殿様もこうなっては虎三郎を江戸に置いておけなくなり、長岡に返したということです。

長岡に帰った虎三郎は謹慎となり、不幸にも難病にかかってしまいます。しかし、それでも筆は置かずに……という中で書かれた論文が「興学私議」になります。

この記事の続きは興学私議の内容について準備ができたらアップします。連休明けぐらいになるかもしれません。

半分以上は自分の興味から調べておりますが、もし本ブログの読者様にもお役に立ったり、楽しんでいただけるような内容にできたらうれしいな、と思いつつ整理して参ります。




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2021年04月12日 Posted byきたゆき at 20:19 │Comments(0)長岡市

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