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Posted by LOGPORT運営事務局 at

新潟県の農業事情を調べてみた

データで分析新潟県の2回目の記事です。
新潟県の農業事情について調べてみました。
動機としては、以前知り合いのお爺様から、「昔は米の出荷が終わったら、お金を持ってみんなで町に繰り出してどんちゃん騒ぎをして・・・」 という景気の良い話を聞いたことがあり、今とは大分様相が違うなと感じたこと。
様相の違いは多分農家さんの所得が原因と考え、新潟県の農業に携わる人々の収入がどのように推移していったかを可視化(グラフ化)してみたいなと思ったところになります。

※本調査で当方が得た結論を知り合いの農業関係者に話した所、「あーそうそう。知ってる知ってる」というような反応でした。
ですので、農業関係者であれば常識的な内容なのかなと思いました。
私は農業は食べる専門なので、詳細については今回初めて知るところとなりました。
※似たようなデータは新潟県や国の省庁のホームページのどこかにあるかもしれません。
ソースは下記の農林水産省のデータを参照しています。
生産農業所得統計 都道府県別生産農業所得統計累年統計(の内新潟県)
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00500206&tstat=000001015617&cycle=0&year=20180&month=0&tclass1=000001034290&tclass2=000001052259
このデータをグラフ化しました。
まず、グラフ一つ目です。
新潟県の農業算出額(昭和35年:1960~平成30年:2018)を生産物品別に示します。



はい。新潟県の主力農産物は説明するまでもなく「米」であることが分かります。
基本的にすべての年で、他の農産物と比較しても「米」が圧倒的な産出額を保っています。
ですので、大まかに新潟県の農業生産品による産出額を見るには、「米」に注視していけば当たらずとも遠からずな結果になると本記事では判断致します。


以上の判断の元、農家さんの所得(米に限らず全て)についてどのようになるか、 米の産出額と相対比較してみました。
※繰り返しになりますが、新潟の農業の主力は米なので、このような比較でもある程度の傾向はつかめるはず・・・



※生産農業所得統計の概要:農林水産省
https://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/nougyou_sansyutu/gaiyou/ 

※農業算出額は、米の場合は最終的に生産された米の総産出額のこと
※生産農業所得 は、農業算出額から経費等を差し引き経常補助金等を加算したもの

両者を比較すると、基本的には連動した動きをしていることが分かります。
新潟県は良くも悪くも、主力製品である米の生産額による所得への影響が大きい事がここからも推定できます。
気になるポイントとしては、
・昭和50年頃から生産農業所得と米の農業産出額が離れる傾向が見られる
・両者とも平成6年頃をピークに減少傾向が見られる
・所得額でみると平成6年(1994年)のピーク2,016[億円]に対して平成30年(2018年)951[億円]で半分となっている

になります。
農家さん一件の所得額の相場はちょっと分かりかねますが、 自分の身で考えてみても、所得が半減するというのはかなりショックが大きいと感じます。

続きまして、なぜ所得額が半減したか?を分析します。
単純な考えで、所得を増やすには・・・
①沢山作って売る
②高く売る
この二つに関連する部分を見てみれば分かるかなと考えました。
つまり、新潟県の米の収穫量と価格の推移をみれば推定できるはずです。
ここで、 収穫量と価格の推移については、

平成の米 新潟県:北陸農政局
https://www.maff.go.jp/hokuriku/stat/data/heiseikome/niigata.html

を参考にしています。
まず、収穫量と生産農業所得を比較してみました。
※データで昭和中期頃のものが無かったので、途中からのグラフになります。



一つ前のグラフで平成6年(1994年)と平成30年(2018年)で比較をしましたが、同様に収穫量を見ると、

水稲の収穫量 
・平成6年(1994年) 783,900[ton]
・平成30年(2018年) 627,600[ton]
となり、ピークの頃からはやや減少傾向が見られます。
(627,600/783,900→約80%に減)
但し平成8年頃からはほぼ横ばいです。

続いて、米の価格と生産農業所得を比較してみました。 米の価格は”新潟 コシヒカリ一般”で見ています。



※指標価格・米の相対取引価格についての詳細説明は、 上記のリンク先の資料64P 66Pに記載があります。
大雑把にはどちらもお米の値段です。

一つ前のグラフで平成6年(1994年)と平成30年(2018年)で比較をしましたが、同様に価格を見ると、
・平成6年(1994年) 24,534[円/60㎏]
・平成30年(2018年) 17,042[円/玄米60㎏]
となり、ピークの頃からは減少しています。
(17,042/24,534→約70%に減)
収穫量と異なり、米の価格は平成8年を過ぎても全体としては減少傾向が見られます。
平成26年から数年は若干の価格上昇が見られます。
以上から、生産者所得が最も高かった平成6年を基準に見ると、
・平成6年~平成8年までは収穫量価格が共に減少。
・平成8年以降収穫量は凹凸があるもののほぼ横ばい
・平成8年以降価格は凹凸があるものの平成26年までは減少

となります。
平成6年以降の収穫量と価格の減少で生産農業所得は大きく減少していると推定されます。
また、平成8年以降は米の価格の減少が支配的要因となり、生産者所得が減少しているのではないかと推定されます。
次の段階としては、この両者が減少するにあたって当時いったい何が起きたのか? を調べる必要があります。
・・・が、現時点ではここまでしかまとめられていません。
調査が終わりましたらまたグラフにしてアップしたいと思います。
ちなみに私の食事事情ですが、基本1日三食は米を食べています。
仕事場には弁当持参です。 ラーメンは健康のため週に1回に制限しています。(制限をしないと際限なく食べてしまうので) といような感じで微力ではありますが、米の消費に貢献しているはず・・・です。  

2021年02月25日 Posted by きたゆき at 21:42Comments(0)データで分析 新潟県

三島億二郎日記を読んでみた 1

長岡市が出している三島億二郎日記を読んでみました。
三島億二郎は河井継之助、小林虎三郎と同じく幕末に佐久間象山から学び、幕末~明治~の長岡・新潟を支えた偉大な方です。
先日UPした河井継之助の建白書に続き、幕末・明治期の日本・新潟がどのような様子で、どのような考えを持った方がいたのか?
真相が知りたくて本を購入しました。
少しずつ読み込みながら、気になった部分を記載していこうと思います。
この日記の巻末の解説にもございましたが、当日記には三島億二郎の日々の備忘録、所感、漢詩、メモなどが記載されています。
現代でいうところの手帳のようなものかな?という印象を受けました。


今回は日記の中の明治10年2月2日に記載された「中庸論」の部分を読み解いてみました。
中庸という(書?)のは孔子の孫の子思(紀元前483?~402?)の作といわれています。(下記文献より)
私は専門家ではないので、失礼を承知で大雑把に「中庸」の内容を説明すると、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」を丁寧に説明した内容になります。
中庸=心技体のバランス感覚 といったところでしょうか?
昔、人の上に立つ人はこのような本で物事の考え方を学んでいました。

三島億二郎が中庸論を日記に記載した理由が、何か講義のようなものを受けて(当時か以前受けたものかは不明)書いたのか?
いきさつまでは読み解くことができませんでした。ただ、その当時の世の流れに対して思うところがあったから記載したのだと思います。


無い頭で漢和辞典を片手に読みました。
内容としてはおおよそ次のような理解でおります。
一部、漢字がどうしても分からなかった部分などもあり、現代語訳できなかったところもあります。

以下---------------------------------------------
世の人の中庸を失うことのなんと酷いことか。今の天下で往々にして、偏らず、党派的に(多数に流され)なりすぎず、個人的になりすぎず、やりすぎず、及ばないこともなく、良く中庸を全うする者が〇〇(漢字が分からず)となり、今我々の社会のあり様を見てごらんなさい。
着実温厚で徳のある行いに努める者は愚直に沈み、
進退活発で知識にあくせくとしてゆとりの無い者は軽はずみに物事に関わり、
俗事に奔走するものは〇〇(漢字が分からず)として退けられ、
丁重尊大で世の中を気に食わないと思っている人は、心が狭く頑愚と見られて拒絶される。

皇学者(古事記・日本書紀を探求して日本本来の精神を明らかにする人)は皇統を崇め従って自分の権利を捨ててしまい、
漢学者は過ぎ去った過去を大事にするばかりで現在を見下げ、
洋学者は西洋に心酔するばかりで日本を愛する事をどのようにするか考えず、
若い者は進むこばかり考えて、退くということを知らず、
年を重ねたベテラン儒学者は退くことは知っているが、進むということを知らず、
学者は宗教者の間違い事を指摘するが、宗教者によって成された結果的に正道に叶う事柄には理解を示さず、
宗教の徒は学者の不敬に対して抗議はするが、いまだ驕り高ぶってすべきことを怠り、世間から歌や芸をする人だという印象を払拭できていない。

飾り気がなく律儀でも言動が下品で卑しい人は、いくら徳を守り義があって誠実で人情が厚くても野蛮人と見るべし。

旧態を守ろうとする人は頑固で新しい事を受け入れず古い事に固執し、
急進論者は過激になり、
段階を追って少しずつ進む人はいつまでも煮え切らずとどまってしまう。

子供を溺愛しすぎるあまり善良な人間に導くこと(教育すること)を怠る両親あれば、
孝行(子供が親に尽くすこと)を固守して(親が固守させて)精神の発達を忘れる子供もいる。

正直で律儀であることも、度が過ぎて馬鹿といわれる人もいれば、
感覚が鋭すぎて狡猾と言われてしまう人もいる。
寛大すぎてお金のやりくりを考えない人もいれば、
倹約が過ぎてケチだとあざけられる人もいる。

意思がしっかりしていて思い切って事を行っても失敗の多い者もいれば、
古いしきたりに何が何でも従うだけで、チャンスを失う者もいる。

精神ばかりを磨く者は体が貧弱な様子となり、
体ばかり鍛える者は精神がおろそかになって鈍くなる。

分別なく疑ってばかりの人は世の信用を失い、
分別なく信ずる者は予期しないところで失望されてしまう

過度に失望する人は再起の気力を失い
希望が過度な人は予期しないところで食い違いを招く。(楽観的すぎて一貫性が無くいい加減ということか?)

分別なく喜ぶ人はあるときは分別なく悲しみ、
分別なく人を悪く言う人はある時は分別なく人を誉め、
分別なく人を愛する者はある時は分別なく人を憎む。

理論家は実際に現場で手を下す人が軽率であることを馬鹿にし、
実際に手を下す人は理論家の回りくどさを笑う。

下戸は上戸の酒を飲むことを笑い、
上戸は下戸が牡丹餅を食べることを笑う。

中庸もバランスを失えば、
用心は臆病となり、
不屈の精神は頑愚となり、
尊敬はかえって人をあざけって馬鹿にすることになり、
自由はわがままとなる。

仁義礼智信(儒教で大事な五つの徳)も間違ってしまえば、
婦人の仁、※1
侠客(ヤ〇ザ)に義があり、
太鼓持ちに礼があり、
盗賊にわきまえがあり、
〇(記載なし)に信がある。
ということになる。

偏らず、傍観せず、党せず、私せず、過ぎたるは及ばざるなく分別をもって中庸で言われていることを得るのは、
実際にはなかなか難しいことであります。

以上--------------------------------------------------

今も昔も悩む部分はそれほど変わっていないような気もしました。

※1
婦人の仁
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14146369379

文字面だけ見ると、なんで女性の仁が良くないのか?と思われることと思います。
この言葉は司馬遷の「史記」で韓信が劉邦に語った項羽の評価だそうです。
意味としては、泣いている人を見て可哀そうになって思わず助けてしまった後、
その人が元気になって活躍し始めると冷たく接してしまうような様子。
その人の活躍が心から喜べない。(泣いている人を見てただ手を差し伸べるだけで終わってしまうことは薄情で真心がない)
というような意味だそうです。

この言葉は史記の文脈まで理解していないと、現代の私たちでは正確に意味が捉えられない言葉だと思います。
こういった言葉を当たり前に使いこなせた三島億二郎や当時の周囲の人々は教養があったのだなと思いました。

参考文献
三島億二郎日記 長岡市
岩波文庫 金谷治 訳注 大学・中庸  

2021年02月11日 Posted by きたゆき at 22:24Comments(0)長岡市

ビルマと新潟の意外なつながり

今、ミャンマーが大変な事になっております。その辺のニュースの関係でインターネットをふらふらさまよっていたら、このような場所を見つけました。
薬照寺(現在休館中)/南魚沼市ウェブサイト
http://www.city.minamiuonuma.niigata.jp/kanko/history_culture/history/1455872879476.html

戦時中、ビルマの国のトップのバー・モウという方が日本に亡命し、新潟県の現南魚沼市にあるお寺に身を隠していたことがあったそうです。

以下、ウィキペディアの参考情報です。
歴史の流れは今に通じます。現状を知り未来を予測するには必要な事なのですが、ミャンマーの歴史はかなりややこしいようです。
春には会館するのでしょうか?
是非伺って見たいと思いました。


参考
ビルマ国 - Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%E5%9B%BD

1941年(昭和16年)12月26日
アウンサン率いるビルマ独立義勇軍が、日本軍と共にイギリス統治下のビルマへと進軍

1943年4月
イギリス軍を駆逐して刑務所に収監されていたバー・モウが解放
彼を行政府の長官に就任

1943年(昭和18年)8月1日
日本政府・軍の後押しによる独立準備委員会は建国議会の成立と独立を宣言、
「ビルマ国」が誕生

1944年
インパール作戦で日本が大敗

1945年3月27日
アウンサン(アウンサンスーチー氏の父)は日本及びビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返る。

1945年
日本軍、ラングーン(現ヤンゴン)から撤退。
ビルマ国政府は日本に亡命。
元首のバー・モウも8月に日本へ亡命した

1945年9月
ビルマは再びイギリスの植民地となる  

2021年02月07日 Posted by きたゆき at 16:29Comments(0)中越